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高橋紹運

 
高橋紹運 / 高橋鎮種
天叟寺所蔵
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文17年9月24日1548年10月25日
死没 天正14年7月27日1586年9月10日
改名 千寿丸(幼名)→吉弘弥七郎→鎮理、高橋鎮種→紹運(号)
別名 通称:弥七郎、三河入道、主膳兵衛、主膳入道(仮名)
渾名:乱世の華、風神戦神の化身、弓矢八幡摩利支天の化身[1]
諡号 紹運、紹雲
神号 三岩霊神、性海霊神
戒名 天叟院殿性海紹運大居士
墓所 福岡県太宰府市の西正寺
岩屋城二の丸跡の高橋紹運墓
福岡県柳川市の天叟寺
福岡県大牟田市の紹運寺
官位 主膳正
幕府 室町幕府
主君 大友宗麟義統
氏族 吉弘氏高橋氏
父母 父:吉弘鑑理、母:大友義鑑娘[2]
兄弟 吉弘鎮信紹運桜井正続室、戸次鎮秀室、尊寿院大友義統室)
正室:斎藤鎮実の妹・宋雲院[注釈 1][注釈 2][3]
側室:萩尾大学の娘・松尾殿[異説][4]

立花宗茂統増市郎丸(統重)[異説]、某[異説][注釈 3]

娘・甲斐/信解院[5]立花成家室)、娘・於千代/栄長院[6]小田部統房室)、娘・退清院[注釈 4][7]大友義乗室)、娘・嘉也/慈光院[8]立花親家室後に細川興元室)
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高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。

紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。

生涯

高橋家相続

天文17年(1548年)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として豊後国筧城[9]に生まれる。義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理から1字ずつ賜り鎮理と名乗る。初陣は13歳で永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いと考えられている[10]永禄10年(1567年)、大友氏の家臣であった高橋鑑種豊前国筑前国肥前国の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。

永禄11年(1568年)、立花鑑載討伐の時、ある夜襲の作戦で兵士を励むために、自分の握飯を食べて配下たちにも与え食べさせ、士気を上げたという[11]

永禄12年(1569年)に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏の岩屋城宝満城の2城を継ぎ、名を鎮種と改めた[12]。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪と共に筑前国を支配することとなる[13]

北九州各地を転戦

天正6年(1578年耳川の戦いで大友氏は薩摩国島津氏に大敗を喫する。この大敗により兄・吉弘鎮信、義兄・斎藤鎮実、大友氏重臣の角隈石宗佐伯惟教田北鎮周など多数の有力武将が戦死。肥前国の龍造寺氏や筑後国の筑紫広門、筑前国の秋月種実らが大友領への侵攻を開始した。同年、鎮種は剃髮して紹運と号している。

その後、紹運含む大友の筑前五城将(道雪、紹運と鷲ヶ嶽城主・大津留鎮正[注釈 5]大津留鎮忠[注釈 6]荒平城(安楽平城)主・小田部鎮元[注釈 7]柑子岳城主先後に臼杵鎮続木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実・筑紫広門・原田隆種田原鑑尚[注釈 8]龍造寺隆信宗像氏貞[注釈 9]麻生元重[注釈 10]杉連並問註所鑑景など筑前、筑後、肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。その戦いの一覧は以下の通りである。

天正9年(1581年)、男子のいない道雪の度重なる要請により、嫡男・統虎を道雪の娘・誾千代の婿養子とした[151][152][153][154][155]。これにより高橋家は次男・高橋統増が継ぐこととなる。

筑後遠征

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺氏が敗北すると、大友氏は失地回復の好機と見て3月、豊後国の大友軍は黒木家永筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や龍造寺方の援軍・土肥家実(土肥出雲守)を前に戦線は膠着した。8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、山険難所を越え[注釈 11]、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。20日に道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実も城から佐賀へ戻った[157][158]。つづいて犬尾城の川崎重高(河崎鎮堯)も降り、25日には川崎の大籠山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった[159][160][158][161]

28日[注釈 12]には道雪一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)[注釈 13]を将として800の別働隊を率いて坂東寺に入り城島城を攻めた。立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)[注釈 14]が勇戦して数人を討ち取って城の外郭を壊したが、城主西牟田氏の率いる300城兵の激しい抵抗に遭って100余りの死傷者を出した[注釈 15]。 道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・小保などの集落を焼き払って、折地、古島、水田を経て柳川の城下町に至った。城主の龍造寺家晴が籠城に徹したことで[167]、両将は城下町を焼いた後、軍勢を転じて高良山にいた大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月1日(一説には5日)[168]に落城させて黒木家永は自害した[157][169][170][171]

9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を降伏・攻落した。この間の9日に柳川城周辺に小競合いがあり[172]、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払った。そしてもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城も占領した。 次に筑後最大の処点・柳川城の攻略を始めようとしたが、この城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、10月4日、両軍は草野鎮永[173]の竹井城を進攻しこの城を焼却した。28日、発心岳城に逃げ込んだ草野を追撃したが、天険を利用して築いたこの城は容易く落ちることができないので、兵を転じて星野吉実の鷹取城・星野城(山ノ中城)・福丸城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて牽制する[174]、さらに秋月領の甘木、甘水辺りまで焼き討ちした後、もう一度三潴郡の諸城を掃討した。その際、田原親家と秋月軍との戦いは敗れたので、道雪と紹運は高良山に戻って朽網鑑康志賀親守らと合流し、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える[175][176][177]

天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家・龍造寺家晴・鍋島直茂・江上家種後藤家信・筑紫広門・波多親・草野鎮永・星野吉実・秋月種実・問註所鑑景城井鎮房長野種信、千手氏など肥前、筑前、筑後、豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野[178][179]、十三部[180]、千本杉、祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦)[181][182] で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康、良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、兵法・戦術や兵器・陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破し、討ち取った雑兵数百及び兜首計約四百七十の戦果を挙げたが、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった[183][184][185]

天正13年(1585年)9月、道雪が病没[186][187][188][189]。これを好機と見た筑紫広門に宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城を奪回する[190][191]。のちに広門と和睦し、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えた[192][193]

岩屋城の戦い

天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上[194][195]。紹運は防御の薄い岩屋城にておよそ763名と共に迎撃、島津軍の降伏勧告を拒絶し、半月に及ぶ戦い(岩屋城の戦い)の末、敵兵多数を道連れにし玉砕。岩屋城は陥落した。享年39[196][197][198][199][200][201]

激戦の様子について、

  • 『筑前続風土記』には「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり。城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし」
  • 『北肥戦記』には「合戦数度に及びしかども、当城は究竟の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり」
  • 『西藩野史』には「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」

などと記されている。

紹運は度々の降伏勧告を拒絶し玉砕したというのが通説だが、当時の島津の記録である『上井覚兼日記』天正14年7月26日条において、紹運が笠の陣まで出向き退城しないことを条件に講和を持ちかけたとの記録も存在する。

墓所、死後

墓所は家臣・藤内重勝が開いた福岡県太宰府市の西正寺、岩屋城二の丸跡の高橋紹運墓、子の柳河藩初代藩主・立花宗茂が建立した福岡県柳川市の天叟寺と孫の三池藩初代藩主・立花種次が建立した福岡県大牟田市の紹運寺[202]

子孫の三池藩六代藩主立花種周と七代藩主立花種善は、文化二年(1805年)奥州伊達郡下手渡村(福島県伊達市)に移封となり、天保6年(1835年)種善の長男・下手渡藩二代藩主立花種温の代に紹運の義烈を顕彰すべく、7月5日には紹運に性海霊神の神号が贈神されて神祇伯に請いて三笠神社が創建された。明治維新により三池復封となり明治3年遷座、明治4年縣社に列せられ明治16年火事により明治29年8月現在地に遷座された。以後三笠神社は郷土の発展とともに武勇の神をまつる神社として広く尊崇されている[203]

人物・逸話

  • 度量寛大にして、高義真実の士なり、此人こそ英雄なるべし[204]
  • 「文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将であり」、数百人の侍が岩屋城で共に戦死した理由がそこにあると記し、また紹運の人となりを義に於き「義に生き義兵を以て義に死んだ。家中の勇も仁義の勇である。」、「賢徳の相有りて、衆に異る。器量の仁にてましませば」[205]
  • 立花道雪と並んで、風神・雷神と称される(風神が高橋紹運、雷神が立花道雪)。
  • 「紹運 平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人も節義うしなわざるべし」[206]と評価される。
  • ルイス・フロイスは本国宛の報告書で、紹運を「希代の名将」と絶賛した。
  • 斎藤鎮実の妹(一説には娘ともいわれる)・宋雲院との結婚が決まっていたが、度重なる戦で婚儀が延び、その間に鎮実の妹は疱瘡を罹い、容貌が悪くなってしまった。鎮実は破談を申し出たが、紹運は「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」と、そのまま正妻として迎え、二男四女を儲けた[207]。紹運の菩提寺である柳川市天叟寺に祀られている紹運の位牌は現在、宋雲院との比翼の位牌となっており、墓所も夫婦合葬されている。
  • 長男の統虎の婿入りの際、紹運は統虎に対し「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い聞かせた。また、備前長光[208][209]を与え「道雪殿とわしが争うことになったならこれでわしを討て」と訓戒したといわれている[210][211]
  • 愛用の太刀は仁王三郎清綱、のちに次子・統増に譲った[212]
  • 耳川の戦いでの大敗を機に、前当主・高橋鑑種の頃からの筆頭家老・北原鎮久は紹運に大友氏を見限るよう説得したが、紹運はそれを拒絶した。秋月種実はこれに目をつけ鎮久を籠絡し、主君・紹運を放逐させるよう画策したが、企みは紹運に露見し失敗。鎮久は岩屋城に登城するところを誅殺された[58]。その後紹運は、経緯を知らない鎮久の子・北原種興に誅殺の仔細を説明し、種興を不問に付して遺領を継ぐことを認めた。一方、秋月種実は鎮久の内応確約を受け取り、内田彦五郎に命じ岩屋城を奪うべく300名ほどの軍勢を派遣するが、この内応確約は紹運と示し合わせた種興の策略であり、紹運率いる軍勢に待ち伏せされて内田は戦死、軍勢も生きて帰れたのは30余名ほどだったと言われる(龍ヶ城夜襲戦と血風奈須美の陣[85][86][87][213]。汚名を雪いだ北原種興はその後、高橋家の重臣として用いられることとなった。
  • 秋月氏筑紫氏原田氏ら周辺の反大友勢力と常に数の上では劣勢となる戦いを強いられたが、敵陣に援軍到着の虚報を流し、退路に見せかけの援軍の旗を立たせて混乱を誘うなど、武勇だけではなく、智将としての活躍も伝えられている(柴田川の戦い[23][24][25][26]や血風奈須美の陣[90][87])。
  • 岩屋城の戦いの最中、島津方の武将・新納忠元が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は中櫓の上から「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵味方双方から感嘆の声があがったと言われている[214][215][216][217][218]
  • 岩屋城の戦いにおいて、紹運以下全員が玉砕することになるが、島津軍にも戦死傷者3,000人とも言われる甚大な被害を与えた。島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍の九州上陸を許してしまう。紹運らの命を賭した徹底抗戦は結果的に島津軍の九州制覇を打ち砕くことになった。
高橋紹運の墓(右)と岩屋城の戦いの戦没者慰霊碑(左奥)[岩屋城二の丸跡]
  • 岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行われた。攻め手の総大将・島津忠長は床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」と諸将とともに涙を流し手を合わせたと伝わっている。
  • 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は薩摩国に入り島津氏を降伏させる。帰途、太宰府の観世音寺(後の山王の社)に立花統虎を呼び、父・高橋紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華(乱世の華)である」とその死を惜しんだと伝わっている。
  • 岩屋城甲の丸跡には、家臣の子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑がある。
  • 岩屋城下に石で築かれた塚がある。この塚は島津軍に金で雇われ、水の手に導いた老婆が落城後、紹運を慕う領民に責められ、生き埋めにされたと伝わっている。
  • 紹運以下、高橋家家臣団の命日7月27日には、現在でも縁者による岩屋城戦犠牲者追悼法要が行われている。

家臣団

高橋紹運を題材とした作品

脚注

注釈

  1. ^ 『續群書類従卷第六百四十七 高橋記』の紹運公御緣邊之事では「鎮実御妹」としている。
  2. ^ 『下記寛政重修諸家譜』によると鎮実の女と記載されたが、それは鎮実の父、長実が二階崩の変で歿後、家主となった鎮実が妹を養女として扱うのだとされる。
  3. ^ 萩尾大学の娘・松尾殿が産んだという男児(庶子)。新宮高橋氏の祖[4]
  4. ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて大友義政と大友義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
  5. ^ 名は大鶴九郎、上総介、式部少輔鎮俊、相模守鎮正、小田部上総入道宗雲、浄慶とも。小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の子、大津留(大鶴)左馬頭長清の跡を継ぐ。[14]
  6. ^ 名は大鶴弥助鑑尚、式部少輔鎮忠、弾正入道宗秋、山城入道宗周、安芸入道、右京入道宗秀とも。大津留鎮正の三男。父から鷲ヶ嶽城の城主職を継承する。父子とも式部少輔と称したことがあり、活躍年代も重なるのでよく同一人物と記されている。[15]
  7. ^ 名は大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、長門守鎮通、鎮道、鎮元、道魁、紹叱とも。大津留鎮正の次男。祖父・小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の跡を継ぐ。[16]
  8. ^ 一部の史料では苗字を原田に誤記。元の名は大津留(大鶴)弾正鑑尚。実は大津留式部鎮忠の伯父。甥と同じ「鑑尚」と「弾正」の名を使用していたのでよく混同されている。最初は豊後浦部衆の鞍掛(懸)城主、耳川の戦い後は大友氏を裏切って宗像氏貞領の津久見嶽城番となった。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85[17]
  9. ^ 立花家の史料によると「宗像弾正忠氏貞」と記述された[18][19][20][21]では許斐の城主・宗像弾正忠と記述された。
  10. ^ 麻生上総介、民部丞。大友家の命令に従って宗像郡津屋崎(上松)城主となったが、のち秋月家に寝返った。[22]
  11. ^ 勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川耳納連山の高峰、九十九折そして道路が未整備の鷹取山などを越えた[156]
  12. ^ 「天正十一年」[162]説、「天正十三年乙酉正月」[163]説、「天正十二年九月」説[164]がある。
  13. ^ 道雪の親族に右衛門大夫と名乗ったのは、戸次(立花)右衛門大夫鎮実但馬了均のみとされる。
  14. ^ 薦野増時の名代。『柳川藩叢書』・第一集によると、天正12年(1584年)8月28日、筑後城島の戦いで戦死した。なお、のち11月下旬の三潴郡掃討戦の西牟田城で戦死した説が有力。『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、安部六弥太前廿八動之砌、於西牟田表分捕候、前日於石垣表も分捕仕候、両度之儀無比類候、参陣以来両家討補頸二百餘にて候、大利之段満足候、(後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。[165]
  15. ^ 立花(戸次)右衛門太夫が城島城の攻防戦で戦死したとする文献は『北肥戦誌(九州治乱記)』『鍋島直茂公譜』『歴代鎮西志: 鍋島家文庫蔵』『筑後国史・筑後将士軍談』などがあるが、[166] によるとこういう記述は明らかな誤記と指摘された。

出典

  1. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.89
  2. ^ 貞善院義誉静(壽)音。『大友・松野・吉弘氏関係略系図』、旧柳河藩主立花家文書-〔覚〕
  3. ^ 宋雲院殿花岳(嶽)紹春大姉。旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕
  4. ^ a b 吉永, 1977 & p.295-296
  5. ^ 『立花遺香』 P.160
  6. ^ 栄長院殿梅宕松春大姉。慶長2年(1597年)7月17日病没、享年25歳。筑後久末村に葬った。小田部昭典『小田部軍物語』P.139~141
  7. ^ 退清院殿梅月春香禅定尼。旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕
  8. ^ 慈光院殿玉英宗金大姉。旧柳河藩主立花家文書-内実系譜〕00001629
  9. ^ 【統幸公ゆかりの地・其の二】筧城(吉弘氏館)跡 伝承地 | 豊後高田市
  10. ^ 吉永正春『筑前戦国史』p.26
  11. ^ 『評註名将言行録』P.227
  12. ^ 『筑後将士軍談』卷之第十 高橋鑑種降参付高橋家別立之事 P.265~268
  13. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.63~64
  14. ^ 『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537~538
  15. ^ 『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537
  16. ^ 『宗像記追考』荒平城 小田部氏 P.538~540
  17. ^ 『鑑連公御戦攻略記』
  18. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85
  19. ^ 『鑑連公御戦攻略記』
  20. ^ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕
  21. ^ 『筑後将士軍談』
  22. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85
  23. ^ a b 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.94
  24. ^ a b 紹運の智略「柴田川の戦い」
  25. ^ a b 吉永正春『筑前戦国史』 p.103~106
  26. ^ a b c 中野、穴井 2012, pp. 45.
  27. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.81~82
  28. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.83
  29. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一四)筑前宇美並障子嶽之間 天正六年十二月十一~十三日 P.9~10
  30. ^ 中野 2001, pp. 6.
  31. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.83~84
  32. ^ 吉永正春『筑前戦国史』筑紫・秋月、岩屋を攻む、豪勇関内記 p.106~109
  33. ^ 中野、穴井 2012, pp. 54.
  34. ^ 桑田 2016, pp. 87.
  35. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十一 岩屋合戦関内記勇戦之事 P.299~300
  36. ^ a b c 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85
  37. ^ a b 吉永正春『筑前戦国史』 p.109~110
  38. ^ a b 二日市の戦い
  39. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一五)筑前鍬摺 天正七年 三月十三日 P.10
  40. ^ a b c 『筑後将士軍談』 卷之第十二 豊後勢與秋月筑紫挑戦之事 P.317
  41. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85~86
  42. ^ a b c 安楽平落城 筑前大友五城
  43. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (45) 戸次道雪感状写 今度於吉川最前被砕手被疵、高名案中、必以時分一稜可賀之候、恐々謹言、四月廿七日 後藤市彌太(連種)殿 P.556。
  44. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・「旧柳川藩誌」十時文書 二 戸次道雪感状写 今度於吉川、最前被碎手、被疵候、高名案中候、必以時分一稜可賀之候、恐々謹言、四月廿七日 十時摂津守(連貞)殿 P.415
  45. ^ a b c d e 中野、穴井 2012, pp. 47.
  46. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.86~87
  47. ^ a b 吉永正春『筑前戦国史』 p.120~127
  48. ^ a b c d 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.103~104
  49. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.119
  50. ^ 中野、穴井 2012, pp. 46–47.
  51. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.88
  52. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.86
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  79. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』補遺 井手口 御感状書出之写 前之廿六於穂波表別而被砕手、黒瀬治部討捕分捕高名感悦無極候、毎々粉骨之次第無比類候、必配當砌可顕志候、恐々謹言 九月晦日 道雪樣御判 井手口壱岐守(盛高)殿 P.467
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  83. ^ a b 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324
  84. ^ 『高鍋町史』 附年表・第一部によるとこの戦いは3月18日。『近代実録』によると10月16日。
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  95. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一 戸次道雪感状 昨日廿七宰府於観世音寺口、増時僕従神五・吉徳砕手被疵之由候、感悅無極候、必可達上聞候、為愚老以時分何樣賀之可申候、恐々謹言、七月廿八日 薦野左近大夫殿(増時) P.225
  96. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)52 竹迫文書 四 戸次道雪知行預ヶ状写 昨日廿七宰府於観世音寺口親父五郎兵衛尉(統種)戦死、高名忠節難盡紙面候、併愚老力落無是非候、必随而可達(平出)上聞之条、御感不可有餘儀候、仍為家恩於郡中三町分之坪付有別紙事預進之候、可有知行候、恐々謹言、七月廿八日 竹迫龍寿(虎種) P.293。
  97. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (48) 戸次道雪書状写 猶々、其元無油断勤番肝要候、一、昨日者早々越山、乍案中祝着候、併真労不及申候、其地江無易儀候哉、殊高鳥居へ責被合候由、肝要候、陣所等之儀、増時被得指南可然様可申談候、仍廣重事昨日同心候哉、心懸之次第悦喜申候、各着陣候ハ、、爰許へも用事多有之儀候間、廣重事者早々帰陣肝要候、恐々謹言、九月三日、 後藤市彌太(連種)殿 P.565。
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  168. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、黒木事、至紹運・道雪種々詫言候、一昨日朔日猫尾属御案利候、為人質黒木伊豆守宗宅罷出候、以其響高牟礼入番之者共火懸、方々落行候、則時人数差遣、普請堅固申付、一衆差籠候、 (後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。
  169. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.136~137
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  172. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (53) 大友義統感状写 前九於柳川表其方僕從市郎分捕高名之由、忠儀粉骨次第感入候、彌又励馳走事肝要候、恐々謹言、九月十四日 後藤隼人佐殿 P.566。
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  174. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二七)筑後井上城 天正十二年十一月十四日 P.14
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  209. ^ 剣 銘 長光
  210. ^ 『立花遺香』 P.107
  211. ^ 『評註名将言行録』P.230
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  213. ^ 『評註名将言行録』P.227~229
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  215. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.253~255
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参考文献

  • 『筑後国史 : 原名・筑後将士軍談. 上巻』
  • 岡茂政、光行照太、藤丸満『柳川史話(第1巻 人物篇其の1)』(福岡県文化会館、1969年)
  • 古賀敏夫『戸次道雪・高橋紹運(長編歴史物語戦国武将シリーズ)》』(1974年)
  • 吉永正春『九州戦国の武将たち』(海鳥社、2001年)95-105頁 ISBN 4874153216
  • 吉永正春『筑前戦国争乱』(海鳥社、2002年)197頁-231頁 ISBN 4874153372
  • 中野等、穴井綾香 著、柳川市史編集委員会 編『柳川の歴史4・近世大名立花家』2012年。 
  • 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』花乱社、2016年。ISBN 978-4-905327-60-8 
  • 中野等『立花宗茂』吉川弘文館〈人物叢書227〉、2001年。ISBN 978-4-642-05220-7 
  • 犬塚盛純 著、高野和人 編『歴代鎮西志』 下(復刻)、青潮社、1992年。 NCID BN07817739 
  • 矢野一貞『校訂筑後國史 : 筑後將士軍談』 下、名著出版、1972年。 NCID BN08011786 
  • 馬渡俊継 著、高野和人 編『北肥戰誌(九州治乱記)』 中、青潮社、1995年1月。 NCID BN11676164 

外部リンク

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