とうきょうスカイツリー駅
とうきょうスカイツリー駅(とうきょうスカイツリーえき)は、東京都墨田区押上一丁目にある、東武鉄道伊勢崎線の駅である[2]。「東武スカイツリーライン」の愛称区間に含まれている[2]。駅番号はTS 02[2]。 駅名通り東京スカイツリー(東京スカイツリータウン)の最寄駅であり、駅と直結している。押上駅と隣接しており、運賃計算上は当駅と同一の駅として扱われる。 歴史1895年(明治28年)4月6日に東武鉄道は創立願を提出し、東京市本所区から栃木県足利町までの83.7 kmで鉄道敷設を申請した。しかし、東京市内に当たる千住駅(後の中千住駅) - 本所駅(現・錦糸町駅)間は市区改正との兼ね合いから審査に時間を要するとし、やむなく出願を北千住駅以北まで縮小した上で、1897年(明治30年)9月3日に本免許を取得した。その直後、1899年(明治32年)1月には北千住駅から越中島までの免許を取得した[2][1]。この際に、曳舟駅 - 小梅駅間を支線的な扱いで免許を申請し、この小梅駅が後に吾妻橋駅となる[3]。1902年(明治35年)4月1日に、当駅は吾妻橋駅(あづまばしえき)として開業し、伊勢崎線都心側における終着駅となった[2][1]。 ところが、開設から2年後の1904年(明治37年)4月5日に東武亀戸線が開通、亀戸駅を介して総武鉄道両国橋駅(現・総武本線両国駅)への乗入を開始することとなった[1]。ここで、ターミナル駅としての機能が他社駅である両国橋駅へ移ることとなり、当駅は廃止された[1]。両国橋駅への乗入は、当時の経営陣が総武鉄道と関係が深かったことで実現したものであった。 しかし、1907年(明治40年)9月1日に総武鉄道が国有化されると事態は急変し、東武鉄道は自社のターミナル駅を保有することを迫られた[4]。越中島への延伸も、当該区間が既に市街化されており、用地買収が困難になっていた。そこで、総武鉄道国有化から6ヶ月後に当たる1908年(明治41年)3月1日に、廃止していた当駅を貨物取扱に限り再開した[1]。 1910年(明治43年)3月1日に駅名を浅草駅(あさくさえき)に改称、3月27日に旅客取扱を再開すると同時に、両国橋駅乗入を廃止した[1]。同年7月13日に東武伊勢崎線が全通し、浅草 - 伊勢崎間で運行開始した[5]。当時、鉄道で当駅へ運び込まれた貨物は、ここで舟運に積替えられ、北十間川から隅田川、中川を通って、広く全国に運び出されていた[1]。1911年(明治44年)3月12日には、東武鉄道本社が両国から小梅瓦町(現・押上)へ移転し、東武鉄道中心拠点としての役割も果たして来た[1]。蒸気機関車による運行で開業した東武鉄道のターミナル駅規模は大きく、構内に転車台、給炭水設備、機関庫、工場(浅草工場)などが設置され、また北十間川と結ぶドックが設置されて舟運の便が図られた[6]。 1924年(大正13年)10月1日に西新井駅まで電化され、電車運行が開始された。電化区間は次第に延長され、やがて旅客列車は全て電車となり、貨物列車のみ蒸気機関車が残ることとなった[7]。 その後も東武鉄道は都心側のターミナル駅を求め、当駅から上野駅への延伸計画を申請した[4]。この申請は1924年(大正13年)に浅草雷門駅(現・浅草駅)まで認可されたが、上野駅までの免許は下りなかった[4]。この理由は浅草雷門駅 - 上野駅間は1919年(大正8年)に東京地下鉄道[注釈 1]が免許の交付を受けていたためである。やむを得ず東武鉄道は浅草雷門駅をターミナル駅とする方針へ変更し、1927年(昭和2年)12月15日に延伸工事を開始したものの、隅田川橋梁と浅草雷門駅の設計変更により工期が長引いた。 この頃、京成電気軌道(現・京成電鉄)も浅草への延伸を計画していたが、1928年(昭和3年)9月26日に京成電車疑獄事件が起きたことに伴い、京成電気軌道は浅草への延伸を断念することとなった。このような紆余曲折の末、1931年(昭和6年)5月25日に東武鉄道は浅草雷門駅への延伸を果たした[1]。この延伸に伴い、駅名を業平橋駅(なりひらばしえき)に改称した[1]。延伸後は、旅客営業としてのターミナル駅は浅草雷門駅へ移ることとなり、当駅は優等列車は全て通過する単なる中間駅となった。1931年(昭和6年)6月25日には、駅に乗り入れていた東京市電も営業休止となった。当駅は貨物営業のターミナル駅としては健在で、都内私鉄の貨物駅としては最大取扱量を記録した。1933年(昭和8年)から木製ホッパーが設置されて、砂利到着拠点となった。当駅の貨物取扱量の最大は、戦前は1937年(昭和12年)の年間約90万トンで、戦後は1964年(昭和39年)に年間約128万トンを記録している[8]。 戦後はトラック輸送が進出して来たため、舟利用が減少し、1954年(昭和29年)にドック使用を断念し、1955年(昭和30年)に埋立てられて廃止となった。跡地には倉庫が設置された[9]。東武鉄道としての貨物輸送量のピークは1961年(昭和36年)で、それ以降は減少の一途を辿るようになった。蒸気機関車による貨物列車の電化が進められ、1963年(昭和38年)10月に当駅での蒸気機関車使用が消滅する[10]。高度経済成長によって高速道路や国道が相次いで開通し、モータリゼーションが進行したことにより、取扱量減少に歯止めが掛からなかった。そして、1993年(平成5年)3月25日をもって当駅を発着する貨物列車は廃止された[1]。 1962年(昭和37年)5月31日に北千住駅を介して営団地下鉄日比谷線[注釈 2]との直通運転を開始すると、伊勢崎線の旅客輸送は飛躍的に増加した。しかし、浅草駅は構造上の問題で10両編成の通勤電車が発着出来ないため[4][注釈 3]、北千住駅以北を複々線にしたうえで運転本数を増加することで輸送力を賄った[注釈 4]。それでも北千住駅の乗換客による混雑は一向に解消されなかったため、貨物扱い設備が縮小されてきたスペースを利用して、1990年(平成2年)9月25日に当駅に10両編成が停車可能な地上ホーム2面3線を新設し[11][12]、伊勢崎線の10両編成列車は当駅を始発・終着駅とした[11]。また、押上駅への地下連絡通路も新設された[11]。 2003年(平成15年)3月19日に押上駅を介して営団地下鉄半蔵門線[注釈 5]との直通運転を開始したことに伴い、当駅の地上ホームと押上駅への地下連絡通路が廃止された[11]。 これにより、旧貨物ヤード跡地には60,000 m2を越える用地が創出され、2004年(平成16年)からは、旧貨物ヤードを中心に都市再開発(押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業)が開始された[13]。同年12月には墨田区・地元関係者が東武鉄道に対して新タワー誘致の協力要請をし[13]、2005年(平成17年)2月に東武鉄道が新タワー事業に取り組むことを放送事業者・墨田区に表明した[13]。同年3月には都市計画が決定され、放送事業者が墨田区押上地区を第1候補に選定した[13]。そして、2006年(平成18年)3月に新タワー建設地として当地区が最終決定され、東京スカイツリーを核とした、東京スカイツリータウン開発が行われるようになった[13]。 東京スカイツリータウンは2012年(平成24年)3月2日に竣工[広報 2][広報 3]、開業を直前に控えた同年3月17日のダイヤ改正では、当駅に初めて特急列車が停車するようになった[広報 4][注釈 6]。併せて、駅名をとうきょうスカイツリー駅(とうきょうスカイツリーえき)に改称した[広報 1][広報 5][注釈 7]。なお、地元の親しみやすさを維持するため、改称後は「旧業平橋」の名称も併記している[注釈 8][注釈 9]。同年4月20日には駅構内リニューアル工事が完了し[14]、同年5月22日に東京スカイツリータウンが開業してからは[13]、当駅はその最寄駅の1つとなっている[15]。 年表
駅名の変遷とその由来当駅は現在の駅名になるまでに3回に渡って駅名を改称をしている。開業当初の「吾妻橋駅」は、隅田川に架かる吾妻橋(あづまばし)に由来する。その「吾妻橋」の名称は、近接する都営浅草線の本所吾妻橋駅に残っている。 2代目駅名の「浅草駅」は、東武鉄道での浅草への玄関口であることから付けられたが、当駅の所在地は本所区(当時)であった。 3代目駅名の「業平橋駅」は、駅南西の大横川(現在の大横川親水公園)に架かる業平橋に由来する。 現在の駅名としたのは、東京スカイツリーとその周辺施設の最寄り駅であることの認知度向上と、地域活性化のためとしている[広報 4]。「東京」の部分を平仮名の「とうきょう」にしているのは、東京駅や東京テレポート駅との区別を明確にするため[注釈 10]と、外国人にもわかりやすく、親しみを持ってもらうためとしている。
連続立体化に伴う駅移設当駅 - 曳舟駅間(留置線のすぐ東側)にある伊勢崎線 第2号踏切は、自動車ボトルネック踏切と歩行者ボトルネック踏切に指定されている[20]。このため、渋滞緩和を目的として、墨田区が事業主体となって区間内の線路を高架化することを2012年1月に決定した。その後国の認可や墨田区と東京都との間の事業費の負担割合の協議などを経て、2017年7月7日付で高架化事業を締結し、着工に入る[広報 15]。2022年11月27日に上り線の高架化が完了した[広報 12]。今後、2025年3月2日に下り線を高架に切り替える予定である[21]。墨田区が公表した2019年度施策評価シートでは、2021年度に上り線、2022年度に下り線を高架に切り替える予定だった[22]。 完成すると、当駅が現在地よりも東側に約150メートル移転し、上りホームが単式・下りホームが複式2面3線となり、駅に隣接する留置線2線と共に同時に高架化される(留置線の縮小部分は、墨田区により押上駅北口交通広場を整備)[23][24]。事業費は約315億円で、東武が約80億円を、墨田区が約235億円をそれぞれ負担する。 駅構造2022年(令和4年)11月現在、単式ホーム2面2線を有する高架駅となっている。下りホームは浅草寄り、上りホームは曳舟寄りに位置し、コンコースは上下線で完全に分離されており[注釈 11]、改札内での上下ホームの行き来はできない[広報 13]。両ホームともバリアフリー設備として、コンコースとの間のエレベーター・エスカレーターを備えるほか、コンコース(改札内)にトイレを設置している。 曳舟駅方面には留置線が存在し、特急形車両などの整備や通勤形車両留置が行われている[25]。主に隣の浅草駅発着列車が回送されるもので、定期ダイヤでは当駅始終着列車は設定されていないが、臨時列車での設定実績はある[広報 16][広報 17]。 のりば
旧貨物ヤード当駅には1955年まで東武鉄道浅草工場が隣接し、1960年代までは蒸気機関車の車両基地(浅草機関区)が存在していた。 1995年頃までは駅南東の地上部に貨物駅を併設し、住友大阪セメント栃木工場(佐野線葛生駅から延びる貨物線を利用)から同社業平橋サービスステーションまでセメント貨物列車が運行されていた。 1990年2月25日から2003年3月18日までは、貨物駅の一部に有効長10両編成対応の2面3線の頭端式ホーム(3 - 5番線、通称「地上ホーム」)が設けられていた[11]。これは、北千住駅の混雑分散を図る目的で、従来に曳舟駅終着もしくは一部分割を行っていた朝ラッシュ時の上り列車について当駅まで延伸するために設置されたものであった[11]。地上ホームには浅草寄りに現行のホームとの間の連絡通路が、曳舟寄りに改札口と地下通路(エスカレーター併設)があった。曳舟側は京成押上線・都営地下鉄浅草線押上駅A2出入口方面への連絡通路があった。いずれも、地下鉄半蔵門線・東急田園都市線との直通運転開始により廃止され、連絡通路も閉鎖された[11]。なお、地上ホームのすぐ南側に保線基地があり、そちらは地上ホームの撤去後も使用されたが、その後東京スカイツリーの建設に伴い撤去された。 跡地は東京スカイツリータウンとなっており、線路跡などは残存していない。 利用状況2023年度の1日平均乗降人員は15,959人である[27]。同一駅扱いの押上駅を含んだ場合の2023年度の1日平均乗降人員は115,366人である。 当駅と押上駅を同一駅と見なした場合、伊勢崎線の駅では北千住駅・新越谷駅に次ぐ第3位。2006年度からは起点の浅草駅よりも乗降人員が多くなり、東京スカイツリータウンが開業した2012年度に1日の平均乗降人員が前年度より2万人以上増加し、開業から初めて10万人を越えた。 ただし、当駅単独の1日平均乗降人員で見ると、2001年度は12,392人であるのに対し2006年度は6,774人であり、半蔵門線との直通運転開始に伴い半分程度まで減少した。しかし、東京スカイツリーの建設が開始された2010年度は9,069人に増加し、開業年度である2012年度は25,494人を記録した。 当駅の1日平均定期外乗車人員は、東京スカイツリーが着工した2008年度は1,429人であったが、建設中の東京スカイツリーが話題になった2010年度は2,953人と倍増した。東京スカイツリータウンが開業した2012年度は12,022人と急増し、着工前と比較すると8倍強の乗車人数を記録している[28]。 近年の1日平均乗降人員の推移は以下の通り。
1990年~2011年の各年度の1日平均乗車人員は以下の通り。
貨物輸送廃止までの貨物取扱量の推移は下表の通りである。
駅周辺
バス路線最寄りバス停留所は、駅前の道路にあるとうきょうスカイツリー駅前・とうきょうスカイツリー駅、駅から東武橋を渡った浅草通りにあるとうきょうスカイツリー駅入口(業平橋)である。以下の路線が乗り入れており、東京都交通局(都営バス)により運行されている。 このほか、駅北側の曳舟川通り上に東北急行バス「ニュースター号」の東京スカイツリー北停留所(一部便のみ停車、降車専用)が存在する。また、東武橋脇には日の丸自動車興業のスカイホップバスの乗り場・案内所がある。
また、別に東京スカイツリータウン内ほかにあるバス停からの路線も利用できる。 付記
隣の駅
脚注記事本文注釈
出典
広報資料・プレスリリースなど一次資料
利用状況
参考文献
関連項目外部リンク
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