株式会社なだ万(なだまん)は、1830年(天保元年)創業の日本料理店。客単価1万5千円ほどの高級店として知られ[3]、日本を代表する老舗料亭のひとつである[4]。百貨店などのテナントとして惣菜や弁当の販売も行なっている。
歴史
創始者である灘屋萬助は、出身地である長崎の卓袱料理と漢方の知識を元に、長崎料理を大阪風にアレンジした料理屋を1830年に大阪で開いた[5]。そして1871年に北浜で「灘萬楼」を開業した[6]。明治中期には現代のスーパーの嚆矢といえる総合食料品店も開き、当時まだ珍しかったパンを販売した[7]。料亭の灘萬は評判を呼び、政財界の要人や文豪らに親しまれ[4]、その作品にも登場した[7]。
仕舞に彼は、灘万のまな鰹とか何かというのもの是非父に喰わせたいと云い募った。
— 夏目漱石、行人
夜
菊池常三郎、緒方収二郎と灘萬に飲み、帰途中嶋朝日軒に遊ぶ。……灘万の割烹は好し。
— 森鷗外、小倉日記
大正時代には、パリ講和会議の折に西園寺公望の訪欧随行料理人として灘萬の店主が指名され[6]、また洋式ホテルの経営にも関わって、レストランでのジャズ演奏は「灘萬ジャズ」と呼ばれた[7]。戦後は帝国ホテルなどに日本料理店の出店を続け[7]、特にホテルニューオータニ庭園の「山茶花荘」(さざんかそう)は政府要人らの会談場所として頻繁に使われ[8]、1986年の東京サミットでは公式晩餐会の会場ともなった[7]。しかし平成に入ると、バブル崩壊、リーマン・ショックなどで高級日本料理店の客足は遠のき、その売上不振を百貨店などでの惣菜販売で補った[9]。
2014年(平成26年)にアサヒビールが創業家(楠本家)から株式51.1%を取得し、なだ万は連結子会社化された[10]。もとよりなだ万の日本料理店で扱うビールの9割はアサヒ商品であり両社の関係は深く[8]、この買収によりなだ万は安定した経営基盤を得た[11]。
しかし、2023年(令和5年)7月、アサヒグループホールディングスは外食事業から撤退する方針を決定し、100%子会社となっていた「なだ万」も売却することになったという報道があったが[12]、その後もアサヒグループ内に所属している様子。2024年(令和6年)7月にも報道があった[13]。
2024年7月26日、アサヒグループホールディングスは同年9月1日付けで本企業の全株式をONODERA GROUPに売却することを正式発表した[14][15]。
店舗
2024年1月時点で、日本料理店は日本国内では関東圏を中心に[3]25店舗、日本国外では中国などに4店舗を構えており、ほかに総菜販売店あるいは弁当販売店として46店舗を展開している[12]。
沿革
関連項目
脚注
外部リンク