もりたじゅん
もりたじゅん(本名:本宮順子(旧姓:森田)[1]、1948年2月18日[1] - )は、日本の元女流漫画家。広島県出身[1]。千葉県市川市在住。日本大学芸術学部油絵科[2]卒業[1]。夫は漫画家の本宮ひろ志[1]。長女はアマチュアゴルファーのもとみやあゆみ[3]。 経歴子供のころから絵が好きだったが、母親がかなり厳格だったようで、小学生のころは手塚治虫・関谷ひさし以外の漫画を読むことは原則禁止されており、漫画を描くことに関しては人形ですら認めて貰えなかったという。中学生のときに一時期、漫画から関心が離れた。高校生のころに漫画が大好きな文芸部の友人たちによって、ちばてつやの『紫電改のタカ』などを勧められ、興味が再燃。以後、水野英子、西谷祥子、あすなひろしなどの作品を愛読する[2]。 大学2年の時、1968年第1回「りぼん新人漫画賞」で「マイ・エンゼル」[4]にて佳作入賞し、同年『別冊りぼん春の号』(集英社)に掲載されデビュー[1]する。 以後、『みいとオバケちゃん』を初連載するが伸び悩む。次々と編集者が変わり、1969年「りぼんコミック」11月号でSF『ダニイル』を読み切りで書くなど模索し苦しむ中で、一回だけ名編集者に漫画の描き方を詳細に指導され、後任の担当者にも薫陶され、徐々に実力をつけていく。結果、『キャー! 先生』でヒット作となる。この作品は、基本的にハッピーエンドで終わることの多かった当時の「りぼん」作品の殻を破り、『主人公の元気な先生が、最終回に原爆症で亡くなるかもしれない』形で終了しており、「りぼん」の他の連載陣・後輩たちにも大きな影響を与えている[要出典]。 それ以降、それまで子供向けだった『りぼん』にラブコメディなどを発表し、第1回新人賞準入選の同期の一条ゆかり、弓月光らと、雑誌の誌面の年齢層を高校生、大学生も含めた形に変えていった[要出典]。 本宮と結婚後に出産し、1974年5月に二人目の子供・長女あゆみの出産[3]を契機に、「りぼん」に「産休の告知」をして、引退するつもりで仕事道具をすべて処分する。が、1975年に復帰。1978年から1981年にかけて子育てのため再度の休みに入り、1982年大人の女性向け「YOU」創刊時に誘われ、再度復帰する。「モーニング」の「丸の内シリーズ」以後はレディースコミックで活躍した。 活動晩年はスコラ、あおば出版、宙出版などの一般誌でも描いていた。だが、徐々にストーリーが作れなくなり(元々ストーリーを作るのは苦手で、「私の作品はいつも同じような筋書きばかり」と本人も自認していた)、集英社外での2006年前後篇読み切りの作成時にストーリー案出に行き詰まり、大スランプに陥る。夫である本宮ひろ志の助力を得てなんとか完成し掲載はしたものの、この時に漫画家としての限界を強く感じ、引退を決意したという。その後、直後の2007年「YOU」『残業了解』を最後に、58歳で漫画家を引退した[2]。 ただ完全に絵を描くことをやめてしまったわけではなく、以降は夫の本宮ひろ志が若いころに描いた『男一匹ガキ大将』の後半から、読切『硬派山崎銀次郎』(後に『硬派銀次郎』で連載)とその続編の『山崎銀次郎』と『さわやか万太郎』など、夫の全作の女性キャラの下描きを現在も担当している[2]。 アシスタントに非常に気前よく給料を渡していたことで知られている。荻野真や猿渡哲也や江川達也なども一時期本宮プロダクションでアシスタントをしており、ずいぶん助けられたという[要出典]。 荻野は『孔雀王』の文庫版あとがきで「あまりにアシスタント料が多かったため、『こんなにもらっていいんですか?』と(もりたじゅん本人に)尋ねたことがある」と述べている。その際「いいのよ、今の私は趣味で漫画を描いてるんだから。趣味で儲けちゃいけないの」と返事されたとのこと[要出典]。 主な作品リスト集英社発行分
他社発行分
単行本未収録
関連番組
脚注 |