アルゼンチン・アポロ
アルゼンチン・アポロ(Argentina Apollo、本名:Vincente Denigris、1938年4月28日 - 1984年8月2日)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身のプロレスラー。生年は1941年[3]または1943年[1]など諸説あり。 アメリカでは、ビットリオ・アポロ(Vittorio Apollo)のリングネームでも著名。同郷の先輩アントニオ・ロッカと同様、アクロバチックなファイトを売り物とする素足のベビーフェイスとして活躍した。 来歴地元ブエノスアイレスの体育専門高校で体操競技を専攻し、オリンピックを目指したこともあったが、故郷の英雄アントニオ・ロッカに憧れ1958年にプロレス入り[3][4]。 ロサンゼルス地区を経て、1960年代はニューヨークのWWWFで活躍。ブルーノ・サンマルチノをはじめエドワード・カーペンティアやボボ・ブラジルなどスター選手のパートナーに起用され、スカル・マーフィー&ブルート・バーナード、ジョニー・バレンド&マグニフィセント・モーリス、ファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ&ロイ・ヘファーナン)などと対戦。1961年と1962年には、アメリカ武者修行時代のジャイアント馬場ともワシントンDCなどで対戦した[5][6][7]。 1962年11月14日にはオハイオ州トレドにてバディ・ロジャースのNWA世界ヘビー級王座に挑戦[8]。1964年2月にはドン・マックラリティと組んでクリス・トロス&ジョン・トロスからWWWF・USタッグ王座を奪取[9]。以降、ジェリー・グラハム&エディ・グラハムと抗争を展開した。 NWA圏では1970年4月20日、ホセ・ロザリオと組んでNWAフロリダ・タッグ王座を獲得[10]、ダスティ・ローデス&ディック・マードックのテキサス・アウトローズともタイトルを争った。フロリダでは5月20日にマイアミビーチにてドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦[11]。9月にはマサ斎藤とのシングルマッチも度々行われた[12][13]。 以降、ミッドアトランティックやジョージアなど南部地区での活動を経て、1975年には北東部で旗揚げされた独立団体IWA(インター・ナショナル・レスリング・アソシエーション)に参戦[4]。ルイス・マルティネスとのコンビでジート&ボロのザ・モンゴルズと抗争し、元WWWF世界ヘビー級王者のイワン・コロフとも対戦した[14]。 日本には1973年1月、ドン・レオ・ジョナサン、ウイルバー・スナイダー、ゴードン・ネルソン、メヒコ・グランデなどと共に全日本プロレスに参戦[15]。翌1974年3月にはテキサス・マッケンジー、トニー・マリノ、ザ・ブルート、ジム・ブランゼル、セーラー・ホワイトらと共に国際プロレスに来日している[16][17]。 得意技獲得タイトル
脚注
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