ニュートン・タットリー
ニュートン・タットリー(Newton Tattrie、1931年7月12日 - 2013年7月19日)は、カナダ・ノバスコシア州出身のプロレスラー。 ジート・モンゴル(Geeto Mongol)のリングネームで知られ[2]、ベポ・モンゴルおよびボロ・モンゴルを従えたモンゴリアン・ギミックの悪役タッグチーム、ザ・モンゴルズ(The Mongols)のリーダー格として活躍した[3]。 来歴12歳の頃に家を飛び出し、第二次世界大戦中はトロントのストリート・キッズになっていたという[4]。1954年、ボクシングを習おうとして入ったジムでプロレスラーの "ワイルドマン" デイブ・マッキグニーと出会い、彼の指導のもとレスリングを習得するが、体が小柄だったためプロレスを定職とすることはできず、以降10年もの間、油田で働きながらリングに上がっていた[4]。 1963年、スチュ・ハートの主宰するカルガリーのスタンピード・レスリングに参戦、飛躍のきっかけを掴む[4]。トロントのジム以来の旧友ワルドー・フォン・エリックの仲介でWWWFにも出場、トニー・ニューベリー(Tony Newberry)のリングネームでジョバーを務めた[5]。アメリカ南部のNWA圏ではブラック・ジャック・ダニエルズ(Black Jack Daniels)を名乗り、1967年2月14日にスタン・コワルスキーと組んでフロリダ版のNWA南部タッグ王座を獲得[6]、同月には「ブラックジャック・ダニエル」の表記で日本プロレスに初来日している[7][8]。 1968年、カルガリーに戻りミスター・ロウバスト(Mr. Robust)の名で活動後、クロアチア移民のヨシップ・ペルゾビッチをパートナーにザ・モンゴルズを結成[4]。自身はジート・モンゴル(Geeto Mongol)、ペルゾビッチにはベポ・モンゴルと名乗らせ、辮髪に毛皮のコスチュームをまとったモンゴリアン・ギミックの無法コンビとして、カナダやアメリカ北東部を中心に活動を開始する[3]。 1970年よりWWWFに再登場して、6月15日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでビクター・リベラ&トニー・マリノを破りWWWFインターナショナル・タッグ王座を奪取[9]。翌1971年6月18日にピッツバーグにてブルーノ・サンマルチノ&ドミニク・デヌーチに敗れて一度はタイトルを失うも、2週間後の7月2日に奪回、11月12日にターザン・タイラー&ルーク・グラハムに明け渡すまで、ベポとのコンビで王座を保持した[9]。 同時期、ピッツバーグの興行権をサンマルチノから購入してプロモート業にも着手[10]、NWFのペドロ・マルティネスに買収される1972年まで、WWWFにおける同地区の興行を担当した[3]。WWWFインターナショナル・タッグ王座も1971年12月18日にジョニー・デ・デファジオと組んでタイラー&グラハムから奪還したが、NWFのピッツバーグ買収に伴い、1972年に同王座は封印されている[9]。 1972年7月にはベポを帯同して日本プロレスに参戦[11]。1973年にベポがモンゴルズを脱退すると、ピッツバーグでスカウトしたビル・イーディーにボロ・モンゴルを名乗らせて後任とし[3]、NWFにてモンゴルズを再編[12]。1974年4月には新生モンゴルズとして新日本プロレスの『第1回ワールドリーグ戦』に来日[7]。予選リーグで上位に食い込み決勝リーグに進出し、アントニオ猪木、坂口征二、キラー・カール・クラップ、ジ・インベーダー、スタン・スタージャックらと対戦したが、戦績は全敗に終わった[13]。 以降、ペドロ・マルティネスも参画していたエディ・アインホーン主宰のIWAやジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区などで活動[12]。1976年7月には新日本プロレスに再来日したが[14]、同年秋にボロとのコンビも解消してモンゴルズを解散させた。 その後はシングルプレイヤーのザ・モンゴル(The Mongol)として、トロント、セントルイス、ジョージアなど各地への転戦を経て、1982年に現役を引退[4]。1985年よりバージニア・ビーチに居住し、レスリング・スクールを5年間運営していた[4]。同スクール出身のヘンリー・ロビンソンとジャック・ワーイングがUNWに来日している。 2013年7月19日、82歳の誕生日を迎えた1週間後、居住地のバージニア・ビーチにて死去[1]。 獲得タイトル
得意技指導選手脚注
外部リンク
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