アルフレッド・ヒッチコックのカメオ出演一覧アルフレッド・ヒッチコックのカメオ出演一覧は、イギリス出身の映画監督であるアルフレッド・ヒッチコックの監督作品のうち、ヒッチコック自身がカメオ出演した作品の一覧である。ヒッチコックは53本の長編映画を監督し、そのうち確認できるものだけで36本にカメオ出演しているが、これに加えてヒッチコックの出演が不確かなものも存在する[1]。初めてカメオ出演したのは『下宿人』(1927年)であり、それ以後ヒッチコック作品の特徴のひとつとして定番化され、主に通行人や公共交通機関の乗客などに扮して短い時間だけ登場した。カメオ出演はヒッチコックのユーモアを示すものであり、これを通して自身のイメージを構築し、その名前を広く知らしめた。 概説ヒッチコックが最初にカメオ出演したのは、監督3作目にあたる『下宿人』(1927年)である。ヒッチコックによると、この作品の群衆シーンでエキストラの人数が足りず、その補充のために仕方なく自身が出演せざるを得なくなったのが、カメオ出演のきっかけだったという[2]。伝記作家のパトリック・マクギリガンによると、カメオ出演のインスピレーションとなったのは、初期の作品に俳優として出演したD・W・グリフィスと、チャールズ・チャップリンの『巴里の女性』(1923年)におけるカメオ出演だったという[3]。それ以来、ヒッチコックは縁起を担ぐ意味を含めて、お遊びのつもりで自身の作品に一瞬だけ登場するようになった[2]。伝記作家のドナルド・スポトーは、それがヒッチコックの作品につけた自署(サイン)のようなものであり、ヒッチコックの「流儀」となったと述べている[4]。 ヒッチコックのカメオ出演の主なパターンとしては、通行人(『レベッカ』(1940年)、『私は告白する』(1953年)など)、バスや列車などの公共交通機関の利用者(『恐喝』(1929年)、『バルカン超特急』(1938年)、『疑惑の影』(1943年)など)、群衆の一人(『フレンジー』(1972年)など)が挙げられる[5][6]。『救命艇』(1944年)、『ロープ』(1948年)、『ダイヤルMを廻せ!』(1954年)のような限定された場所で物語が展開される作品では、普通にカメオ出演することができないため、工夫を凝らして写真や広告の中に登場した[7]。また、ヒッチコックはしばしば楽器を持って登場することがあり(『白い恐怖』(1945年)、『見知らぬ乗客』(1951年)、『めまい』(1958年)など)[1][8]、いくつかの作品の登場の仕方にはちょっとしたコミカルな描写が見られた(例えば、『恐喝』では子供に嫌がらせを受け、『トパーズ』(1969年)では車椅子から立ち上がる)[9][6][10]。 カメオ出演はヒッチコックのユーモア精神の表れであり、ひとつのお馴染みの呼び物となった[11][12]。観客にとってスクリーンにヒッチコックの姿を探すことは楽しみかつ期待するものになったが、その一方で観客がカメオ出演に注意を払うあまり、プロットを追うことに集中できなくならないようにするため、ヒッチコックはほとんどの作品で映画開始から数分以内に出演するように配慮している[2][11][13]。一部の伝記作家は、カメオ出演がヒッチコックのブランドとイメージを構築するためのプロモーション活動のひとつの要素だったと見なしている[4][14]。実際にカメオ出演は、テレビシリーズ『ヒッチコック劇場』(1955年 - 1965年)のホスト役での出演とともに、ヒッチコックの名前を今日まで広く知らしめることとなり[15][16]、映画評論家の山田宏一は「一作ごとにチラッと特別出演するヒッチコックの太ったシルエットは、チャップリンの放浪紳士のスタイルと同じくらい有名になった」とさえ述べている[12]。ヒッチコックのカメオ出演は、ジョン・カーペンターやピーター・ジャクソンの自作へのカメオ出演や、『アデルの恋の物語』(1975年)に出演したフランソワ・トリュフォーに影響を与えた[17][18]。 1966年のフランソワ・トリュフォーとのインタビューでは次のように述べた[19]。
1950年、『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事「マスター・オブ・サスペンス:内省」の中で、ヒッチコックは次のように書いた[20]。
カメオ出演の一覧
ギャラリー
その他のヒッチコックのカメオ出演
出典
参考文献
外部リンク
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