アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ (フランス語 : Antoine-Laurent de Lavoisier [ 1] 、1743年 8月26日 - 1794年 5月8日 )はフランス王国 のパリ 出身の化学者 である。質量保存の法則 の発見、酸素 の命名 、フロギストン説 の打破などの功績から「近代化学の父 」と称される[ 2] [ 4] 。裕福な出自から貴族 となったが、当時のフランス革命 の動乱に翻弄され落命した。
アントワーヌ・ラヴォアジエ
業績
質量保存の法則
『化学要論 』(名古屋市科学館 展示、金沢工業大学 所蔵
『化学要論 』(名古屋市科学館 展示、金沢工業大学 所蔵
1774年 に物質 の体積 と重量 を精密 に測る定量実験を行い、化学反応 の前後では、反応系の物質全体の質量 が変化しないことを発見した。すなわち、今日においても化学 の重要な基本法則とされる質量保存の法則 をラヴォアジエは発見し、これを初めて著した[ 4] 。
燃焼の理解 (フロギストン説の打破)
当時は、医師 で化学者のゲオルク・シュタール (ドイツ )の提唱したフロギストン説 が支持されていた。すなわち、燃焼 は一種の分解現象であり、可燃物からフロギストンが飛び出す現象であるとされていた。1774年にラヴォアジエは実験によってこの説を退け、燃焼を「酸素 との結合 」であることを見出し、1779年 には酸素を「オキシジェーヌ (フランス語 : oxygène )」と命名した。
以上の功績からラヴォアジエはしばしば「酸素の発見者」とも言及されるが、酸素(と後に命名・認知される物質)自体の発見はイギリスの医師 のジョン・メーヨー にまで遡る。ラヴォアジエより以前に、メーヨーは血液 中にある「酸素」の存在を提唱していたが、当時は受け入れられていなかった。その後の1775年 3月に、イギリス の自然哲学者 、教育者 、神学者 であるジョゼフ・プリーストリー が単体 の「酸素」の分離・発見に成功した。単体の発見者という意味で、「酸素」の発見はプリーストリーに優先権がある[ 11] 。1775年にプリーストリーはこの発見を論文 として王立協会 に提出もしており、今日の化学史 の視点からも、酸素の発見者はプリーストリーとされる。なお、当時進行中だった科学革命 のなかで、プリーストリーのほかに、スウェーデン の化学者、薬学者 であるカール・ヴィルヘルム・シェーレ もプリーストリーとは独立に酸素を発見している[ 13] 。
このように「酸素の発見者」の特定は困難だが、燃焼における酸素の役割を解明してフロギストン説を打破したラヴォアジエが、酸素の命名者としての栄誉を得た。アメリカ の科学史 家の トーマス・クーン は、著書『科学革命の構造 』においてパラダイムシフト の観点からラヴォアジエの功績を評価した。
ラヴォアジエの元素表
ラヴォアジエは著書『化学原論』で、次の33項目を「単一物質」[ 14] として挙げている。この33の単一物質を以下に表で示す。33項目のうち25個は現代の化学においても元素 として扱われている。残る8つのうち、ホウ酸基、ライム、マグネシア、バリタ、アルミナ、シリカの6つは、それぞれ個別の単体元素 の酸化物 である(順に、ホウ素 、カルシウム 、マグネシウム 、バリウム 、アルミニウム 、ケイ素 の各元素の酸化物)。
2023年の時点で、元素の周期表 (19世紀に考案)には118種の名前のある元素[ 15] が記載されている。このうち、地球上で天然に存在する元素は概ね90種程度である[ 16] [ 17] 。ラヴォアジエはこのうちの25種[ 18] を「単一物質」としてまとめており、21世紀までに達成された成果のうちの2割から3割ほどの「元素」がこの18世紀の著書の中で系統的に紹介されている。
その他
現代化学からみて誤りではあったが、物体の温度変化を「カロリック」によって引き起こされるものと提唱した。ラヴォアジエはこれを体系づけたカロリック説を構築した。
生涯
出生から学生時代
ラヴォアジエは、1743年8月26日にフランス王国 のパリ において、裕福な弁護士 である父の下に生まれた。母はラヴォアジエが5歳の頃に亡くなっており、ラヴォアジエは莫大な遺産を引き継いだとされる。母を失ったラヴォアジエは叔母 のもとで養育された。
1754年 から1761年 まで、ラヴォアジエはマザラン学校 (フランス語版 ) に在籍し、化学 や植物学 、天文学 、数学 を学んだとされる。当初、ラヴォアジエは父の跡を継ぐべく法律家 を目指していた。1761年にはパリ大学 の法学部 に進学して、1763年 に学士号 を修得している。翌年の1764年 には、弁護士試験 に合格し、高等法院 法学士 となった。
ラヴォアジエが自然科学 に興味を抱くようになった転機は、パリ大学の在学中であった。いずれも同国出身である天文学者 のニコラ=ルイ・ド・ラカーユ からは天文学を、博物学者 のベルナール・ド・ジュシュー からは植物学を、博物学者・鉱物学者 のジャン=エティエンヌ・ゲタール [ 22] からは地質学 と鉱物学 を、化学者 のギヨーム=フランソワ・ルエル (フランス語版 ) からは化学を、それぞれ学んでいた。彼らによる指導により、ラヴォアジエは自然科学 に興味を持つようになった。上述の通りラヴォアジエは法学部に在籍していたが、化学の講義を聴講したり[ 4] 、喜望峰 に滞在して天文学の研究をしたり、ゲタールによるフランスの地質図 作成に協力したりしたとされる。
その後、ゲタールと各地をまわるなかでアルザス=ロレーヌ などを旅行した際に、ラヴォアジエは各地方の石膏 に関心を示し、これらの比較研究をした。これがラヴォアジエの最初の自然科学の研究であった。後にラヴォアジエは特記すべき定量実験で多くの成果を残すことになるが、推測を極力排し確実な実験事実が重視したこの石膏に関する研究は、その兆しであった。
フランス科学アカデミー入会から結婚まで
ラヴォアジエと妻マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドの肖像画『ラヴォワジエ夫妻の肖像 』。
マリー=アンヌが描いた実験図。A側の方を熱してAは水銀 、Eは空気である
1766年 にフランス科学アカデミー は『都市の街路に最良な夜間照明法』というテーマで論文を懸賞募集していた。ラヴォアジエはこれに対して誰よりも先に論文を著し、1766年 4月9日にはこの論文は1等賞を得た。速やかに優れた論文を著したこの成果に対して、当時のフランス国王 であったルイ15世 より金メダル が授与された。その後、ゲタールとの地質図作成の旅行で集めた飲料水の分析 結果を発表して、この成果が認められ、1768年 5月18日にはフランス科学アカデミーの会員となった。
当時、イギリスの化学者・物理学者 のヘンリー・キャヴェンディッシュ は金属 と酸 から水素 が発生することを発見していた。こういった発見に触れたラヴォアジエは、水 や燃焼 現象に興味を示すようになった。当時は古代からの四大元素 説が有力であり、そのなかに「水 は土 に変わることがある」[ 24] という説があった。これに疑問を抱いたラヴォアジエは、1768年の年末から翌1769年 にかけて101日の期間をかけた実験を行った。これは、水をガラス容器に入れて密閉状態で沸騰させた後に、正確に重さを測る実験であった(ペリカン[ 25] の実験)。この結果として土の発生は観測されず、「水は土に変化しうる」という説の反証を示した。
1768年には、フランス科学アカデミーから『空から巨大な石が落下して、働いていた農夫の近くの地面にめり込んだ』という報告書の検討を依頼された。これに対して、ラヴォアジエは、空からは巨大な石が落下することは絶対にないと判断し、目撃者の勘違いか嘘であろうと返事したとされる[ 26] 。
先述の通り、ラヴォアジエは裕福で資産を十分に持っており、実験器具を購入する資金はあったとされる。にもかかわらず、実験器具の購入費用は資産からは出さず[ 27] 、1768年頃より徴税請負人[ 28] の職に就いたとされる。物理学者の小山慶太 によると、ラヴォアジエにとって実験は"道楽"であったとされる。週に1日は実験に耽り、ラヴォアジエはその1日を"幸福の1日"と呼んでいた。
1771年 12月6日には、徴税請負人長官 であるジャック・ポールズ (フランス語版 ) の娘のマリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ と結婚した。式はパリ にあるサンロック教会 (フランス語版 ) で執り行われた。二人の間に子はなかったものの、マリー=アンヌはラヴォアジエの役に立とうと、英語 やラテン語 、イタリア語 を学び、化学や絵画 (実験図)の描き方などを習得したとされる。たとえば、アイルランド の科学者であるリチャード・カーワン やプリーストリー の論文や手紙をフランス語に翻訳したり、実験に際しては非常に細かな点までスケッチ・記録として残したりした[ 31] 。
様々な実験から『化学命名法』出版まで
宇田川榕菴 により描かれた『舎密開宗』。蘭学 として伝わったラヴォアジエの水素燃焼実験図
1772年 頃には、ラヴォアジエは貴族の地位を金で得ていた。マリー=アンヌも自身のサロンを構えて、客人を招くようになっていた。ラヴォアジエは、1775年 頃に火薬硝石公社の火薬 管理監督官 となり、翌1776年には兵器廠(砲兵工廠 )に移り住んだ。そこでラヴォアジエは実験室をつくり、彼の実験の大部分はそこで行われるようにになった。この実験室は化学者らの集う場所として有名になった。この実験室では、大砲 用の火薬を改良したほか、硝石 の生産量を大幅に増やして、火薬の製造力を増大させた[ 32] 。この際に、火薬に炭酸カリウム を入れると、その火力 が上がることを発見した。また、農家に報酬金を支払って、火薬の原料となる硝石 [ 33] を作らせた。このようにラヴォアジエは農業の分野にも関与しており、後には王立農業学会やフランス政府の農業委員会に加わった。
質量保存の法則の発見
1774年1月には、上記の「ペリカン」を用いた実験により、化学反応の前後では質量が変化しないことを見出した。これは、化学反応の前後で、反応系の全体の質量は変化しないとする法則であり、21世紀となっても質量保存の法則 として化学の初等教育 で教えられている重要な基礎法則である。
フロギストン説の打破
ダイヤモンド の燃焼実験
呼吸と燃焼の実験
当時の燃焼 を説明する理論 としては、シュタール のフロギストン説 が最も知られており、主流(正統 )な学説とされていた。フロギストン説は、燃焼を一種の分解 現象と説明しており、可燃物の燃焼時にはそのなかに含まれていたフロギストン(という物質)が出てきて、熱や炎となるとされた。ただ、燃焼によって物質の重量は一般に軽くなるが、金属を加熱して金属灰に変化させた際には重量が増すという事実は明らかになっていた(この実験は、アイルランド の貴族で化学者のロバート・ボイル らによる)。フロギストン説についてはこの矛盾の解消が課題となっていた。
1772年にラヴォアジエは、リン を燃焼させる実験を行って、その重量が増加することを確認した。さらに、硫黄 についても燃焼実験を行い、同様に重量が増すことを確認した。これらの燃焼実験のときに、空気 が燃焼物に吸収されることが確認された。このことから、燃焼に伴う重量増加の原因は空気にあると考え、1773年初頭には、燃焼と重量増加の問題を徹底的に調査しようと決意したとされる。この段階では、ラヴォアジエはフロギストンの存在は否定しておらず、「燃焼時にはフロギストンと空気が入れ替わる」としていた。また、吸収される空気の成分も、ジョゼフ・ブラック が1755年頃に発見した「固定空気」であろうと推定していた(この空気の成分は現代では二酸化炭素 として知られている)。なお、ラヴォアジエは1773年 2月20日 付けの実験ノート において、この発見は「化学に於ける革命になる」と書いていた。
1774年4月には、レトルト に錫 を入れて加熱し、燃焼によりできた錫灰の重さを比較する「レトルトの実験」を行った。この実験の精密評価により、「火の粒子(フロギストン)」は存在しないとラヴォアジエは判断に至った。同年11月12日には、この成果をフランス科学アカデミーで発表した。
同年の10月にプリーストリーがフランスを訪れており、ラヴォアジエはプリーストリーから次の話を聞いている。すなわち、ひとつは、水銀灰を加熱すると何らかの気体が出てくることであり、もうひとつは、その気体は燃焼を助ける ということである。翌1775年に、ラヴォアジエは酸化水銀を強熱することで「気体」を得る実験を繰り返し[ 36] 、その「気体」は「固定空気(二酸化炭素)」とは別のものだと断定するに至った。このときラヴォアジエは、この「気体」と可燃物が結合することが燃焼 の原因であると考え、この気体を「オキシジェーヌ (フランス語 : oxygène )」と命名した[ 37] 。こうして1777年 には、ラヴォアジエは燃焼について「物質と気体が結合すること」であると説明するようになった。1779年 には、その気体をあらためて「オキシジェーヌ」として発表した(ただし実際には、このときの気体から結合してできるものは水素イオン であった)。
1781年 には先述のキャヴェンディッシュが、別のある気体と酸素を混ぜて水 をつくり出した(水素爆鳴気 からの水の生成)。この実験に関心を示したラヴォアジエは、1783年 にキャヴェンディッシュが行った実験を定量実験によって追試した。その結果として、水は元素ではなく、物質が組み合わさってできているもの(現代の用語でいう化合物 )であることを示した。このとき酸素と混ぜた「気体」について、水を作り出す素であることを由来として「イドロジェーヌ (フランス語 : hydrogène )」と名付けた。
当初はフロギストン説に肯定的であったラヴォアジエであったが、この1783年を機に、フロギストンを疑問視するようになり、フロギストン説を論文・著書等で公然と否定するようになった。1782年 から翌年の1783年 にかけては、同国出身の自然科学者、数学者、物理学者、天文学者であるピエール=シモン・ラプラス と共に「氷熱量計 」を作り、熱量 もラヴォアジエが得意とする定量測定の対象となった。1777年には、動物の呼吸 もまた一種の燃焼であることを裏付ける実験も行い、呼吸に伴う燃焼も酸素との結合反応であることを示した。
『化学命名法』の発表
1787年 に、ラヴォアジエは同国出身の化学者で医師のクロード・ルイ・ベルトレー やルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボー 、アントワーヌ・ド・フルクロワ (フランス語版 ) らとともに、新しい化学用語を定義する主旨で書かれた『化学命名法』を著した。これは(当時の)元素 に新たな定義を与えて、物質の命名 法を定めるものであった。また、水 の成分が酸素と水素であると見出したとも記された。
なお、先に述べたように、酸素と水素から水が生じることの発見はキャヴェンディッシュが先に成し遂げている。キャヴェンディッシュはかなりの変わり者で、人間嫌いだったとされており、そのためか、ラヴォアジエの『化学命名法』の発表に何の関心も示さなかったとされる。水が化合物であることの発見についてさえ、キャヴェンディッシュは優先権を主張せず、結果としてラヴォアジエが本発見の優先権を得ることとなった。
また、この年からラヴォアジエは、彼の所有地があるオルレアン の地方議会において、第三身分 の代議員 になっていた。当時のフランスでは、専制的な王 が無駄遣いや贅の限りをつくし、国民を苦しめており、1787年には貴族らも王権に反発し、反抗を始めていた。この社会情勢はやがて、ラヴォアジエの運命を左右したフランス革命 (下記)へと至ることとなる。
フランス革命勃発、『化学原論』出版から処刑まで
研究室 内のエルテール・イレネ・デュ・ポン (フランス語版 ) とラヴォアジエ
『化学原論』の出版
1789年 に、ラヴォアジエは『化学原論 (英語版 ) (邦訳名:化学のはじめ)』を出版した。そこでは、現在の元素 に概ね相当する33種の「単一物質」のリスト[ 38] [ 39] が示されている(⇒#ラヴォアジエの元素表 )。元素について単体 と化合物 を系統的に理解しようとした試みであり、これについて「化学の革命を成し遂げた」ともされている。『化学原論』のなかの13の図版 はマリー=アンヌが手がけた。第一部では気体の生成と分解、第二部では塩基 や酸 と塩 に関する解説、第三部には化学の実験器具とその操作法が書かれ、また、質量保存の法則が明確な形で記載されている。この『化学原論』は、出版から後の10年間に、ヨーロッパ 全土で標準的な教科書とされた。
また同年にラヴォアジエは、新たに元素としての窒素 について、ギリシア語 で「生命がない」と言う意の表現「アゾティコス」(azotikos)に因んで「アゾート」(azote)との命名を行った。
フランス革命の勃発
『化学原論』出版のこの年、すなわち1789年の7月14日にはバスティーユ襲撃 が勃発し、フランス革命 が始まっていた。当時のラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を務めていた。
ラヴォアジエは、新しい質量の単位 についての規則を決議するため、新度量衡法 設立委員会 の委員を務めていた。1790年 には各温度を測り、体積 や質量 、密度 を精密に定める為に蒸留水 の質量を測定した。また一方で、ラヴォアジエの実験の対象は気体の化学のほか、呼吸と燃焼の関係性を調べる生理学 的なものへも移っていった。
先述の通り、ラヴォアジエは徴税請負人であった。革命がすすむなか、1791年 に徴税請負制度は廃止されたが、フランス国王ルイ16世 に財政面の手腕を見込まれたラヴォアジエは、国家財政委員に任命された。この職務にあたってラヴォアジエは、フランスの金融および徴税制度を改革しようとしたとされる。
やがてヴァレンヌ事件 を経てルイ16世が失脚するなど、革命はさらに進行するようになった。1792年 にラヴォアジエは、政府関係の職を全て辞任し、兵器廠にあった住居(上述の通り実験室でもあった)からも引っ越し、科学アカデミーでの活動に専念するようになったとされる。しかし、そのフランス科学アカデミーも革命にともない閉鎖となり、ラヴォアジエの呼吸と燃焼に関する生理学的な実験は、途中で終わることとなった。
投獄・処刑
1853年、ジャック=レオナール・マイエによるラヴォアジエの彫像(ルーヴル宮殿 ) 1793年 11月24日 には、革命政府 は徴税請負人[ 28] の全員を逮捕すべく、元・徴税請負人らを指名手配 した。ラヴォアジエは酷い徴税はしておらず、むしろ税の負担を減らそうと努力していたとされるが、この指名手配に対して、ラヴォアジエは自ら出頭した。しかし、徴税請負人の娘(マリー=アンヌ)と結婚していたこと等を理由に投獄された。
やがてラヴォアジエは革命裁判所 における審判にかけられた。ラヴォアジエの弁護人はラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して弁論を行ったが、裁判長のジャン=バティスト・コフィナル (英語版 ) は「共和国に科学者は不要である」として退けたとされる。こうして1794年 5月8日には、「フランス人民に対する陰謀」との罪[ 32] [ 43] でラヴォアジエに死刑 の判決が下った。刑はその日のうちにコンコルド広場 にあるギロチン で執り行われ、ラヴォアジエは50年の生涯を閉じた。
なお、化学者でもあるジャン=ポール・マラー は革命指導者の一人であった。マラーはかつて学会に論文を提出し、その審査を担当したラヴォアジエによって却下されていた [要出典 ] [ 44] [ 45] 。ラヴォアジエが投獄、処刑された経緯については、マラーによる逆恨みがあったのではないかとも伝えられている [要出典 ] [ 45] 。
同国出身の数学者 、物理学者 、天文学者 であるジョゼフ=ルイ・ラグランジュ は、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」 との言葉を残し、ラヴォアジエの死を悼んだとされる[ 46] 。
評価
上述の通り、ラヴォアジエは科学者であった一方で、貴族であり徴税請負人の立場にあった。ラヴォアジエの存命時期や死没の直後は、革命政府関係者による批判的な評価があった一方、ラヴォアジエの業績への高い評価をともなう同情的な言葉も近しい学者から残されている(⇒投獄・処刑 )。
処刑から半世紀ほどが経った1853年 には、ナポレオン3世 による帝政下 で、彫刻家のジャック=レオナール・マイエ (フランス語版 ) がラヴォアジエの彫像を制作している。2013年現在では、パリの市役所にラヴォアジエの功績を讃える像が飾られている。21世紀の現代においては、科学史におけるラヴォアジエの名誉は回復されており、数多くの科学とりわけ化学における功績から「近代化学の父 」と称されている[ 2] [ 4] 。
ギロチンの都市伝説
ラヴォアジエの処刑に関しては都市伝説 が残されている。内容は次の通りである。ラヴォアジエがギロチンにかけられる際に、処刑後のヒト にどの程度の時間にわたって意識 があるかを検証するため、ラヴォアジエは周囲の者たちに「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言して、彼は断首後に実際に瞬きを行なった、という内容である[ 47] 。
この都市伝説には次にようにいくつか疑義が呈されている。ラヴォアジエの処刑は、35分間で26人を処刑するという「流れ作業 」のような連続した執行の中間で行われたものとされる。警察官 の隊列によって関係者以外はギロチン装置からは距離があったことからも、そのような実験をする時間も猶予もなかったとされる。また、ラヴォアジエの処刑にはラグランジュ ら数名の科学者が立ち合っていたとされる。都市伝説ではしばしば、この「実験」を依頼されたのはラグランジュであるとされている。にもかかわらず、ラグランジュの著書等にそのような記述は全く確認はされていない。以上のことから、この都市伝説が事実とはいいがたいとされる。具体的には、ボーリュー医師の1905年の論文 などをもとにして、1990年代 以降に創られた創作ではないかとされている。
この都市伝説が広まるに至ったいきさつは、1998年にディスカバリーチャンネル で放送された番組『ギロチン』であるとされる[ 48] 。この番組のなかで、神経外科医 の人物の解説とともに、上記の内容の話が出所不明[ 48] のまま取り上げられてしまった。こうした経緯から、この都市伝説が世に広まったものと歴史家のジェンセンは指摘している[ 49] 。
この都市伝説と関連する事項として、かつてサーモフィッシャーサイエンティフィック 社はラヴォアジエのデスマスク を所有していると主張していた[ 49] 。2004年に、これは贋作 であろうと指摘されている[ 49] 。
脚注
^ 日本語に訳されるにあたっては他に、ラボアジェ、ラヴワジエ、ラボアジエ等とも表記される。発音記号 で表記すると [ɑ̃twan lɔʁɑ̃ də lavwazje] となる。
^ a b ドイツ の思想家 フリードリヒ・エンゲルス はその著書『自然の弁証法 』で、「「近代化学の父 」と呼ぶ人物にはジョン・ドルトン が相応しい」としている。
^ a b c d ラボアジエとは - コトバンク 、2013年3月27日閲覧。
^ Kuhn 1996 , pp. 53–60; Schofield 2004 , pp. 112–13
^ ただし、論文等の著書・著作での発表はプリーストリーよりも後である。
^ あえて訳せば、元素 や単体 と解せる。
^ ここでいう「名前のある元素」には、元素の系統名 のみしか名前がない元素は含んでいない。
^ “原子の構造と核分裂 - 原子力発電 | 電気事業連合会 ”. 電気事業連合会 . 2023年10月20日 閲覧。
^ TBS. “元素って何? ”. TBSテレビ . 2023年10月20日 閲覧。
^ 単体が酸化した酸化物も含めるなら31種
^ 光は現代化学の元素でこそないが、標準模型 においては基本粒子 (光子 )である。ただしもちろん、ラヴォアジエの時代には素粒子物理学 はおろか量子力学 もまだない。
^ 燃焼反応の理解を大きく前進させたラヴォアジエであるが、「熱の正体」は「物質」的なものであるとの古代以来の四元素 以来の観念は脱却できなかった。この点で人類は、19世紀の熱力学 の発展まで待たねばならなかった。
^ ゲタールは、それ以前からラヴォアジエ家と親交があったとされる。
^ 同説においては、水も土もそれぞれ基本元素のひとつである。
^ ここでのペリカンは鳥 のペリカン ではなく、形が鳥のペリカンに似ていることから「ペリカン」と名付けられた蒸留器 のことを指す。
^ コリン・ウィルソン (1989年6月30日). 世界不思議百科 . 青土社. p. 15ページ
^ 自身の資産は別途に有利に運用しようと考えていたとされる。
^ a b 徴税請負人は、市民から税金を取り立て国王に引き渡す職である。取り立て行為に対する報酬として高い収入を得られた。しばしば市民を過剰に経済的に苦しめたため、専制的な王の手先・共犯者であるとして、当時の市民からは憎まれていた職業であった。
^ 川島, 慶子 (2006), “ラヴワジエ夫人:化学革命の女神か?” (PDF), サイエンスネット (数研出版) (26): 6-9, http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/26/Sc26_2.pdf 2011年2月4日 閲覧。
^ a b 参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ
^ 硝石は農業の副産物として得ることができる。
^ 注 - 水銀 を12日間加熱した
^ スウェーデン の化学者で薬学者 のカール・ヴィルヘルム・シェーレ は、1773年頃(ラヴォアジエより先)にその物質をすでに発見しており、彼は「傷んだ空気」と呼んでいたとされる。しかしながら、この発見は未発表のものであった。
^ ただし、そのリストにはカロリック (熱素 )や酸化物 等の元素でないものも含まれている
^ Traité élémentaire de chimie, p.192。[1] [2]
^ あるいは、「水と有害物質 をタバコ に混入した」との架空の罪 も含まれたとされる。
^ 定量実験をモットーとするラヴォアジエは、マラーの論文は「実験もせず憶測の内容であったため」として却下したとされる [要出典 ] 。
^ a b 但し、マラーは投獄に関与があった可能性までは排除できないが、1793年 7月13日 に殺害されており、処刑に関与があったとは考えにくい [要出典 ] 。
^ No. 728:DEATH OF LAVOISIER 、2013年4月14日閲覧。
^ 斬首 ― 切断された人間の頭部は意識を有するか - X51.ORG、2013年4月14日閲覧。
^ a b Adams, C. "Triumph of the Straight Dope," Ballantine Books: New York, NY 1999. なお番組で解説した神経外科医のRobert Finkは後の取材に対し、この話は知り合いから聞かされた話であり、話の出所までは確認していなかったと答えている。
^ a b c Jensen, W. B. "Did Lavoisier Blink?" J. Chem. Educ. 2004, 81 (5) , 629.
参考文献
関連項目