『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト 』(1801年、マルメゾン城 所蔵) 左下にボナパルトのほか、ハンニバル 、カール大帝 の名がある。いずれもアルプス越えの戦将。この他にも4枚、同じ題の絵がある。
ブリュッセル にあるダヴィッドの墓
ジャック=ルイ・ダヴィッド (フランス語 : Jacques-Louis David 、1748年 8月30日 - 1825年 12月29日 )は、フランス の新古典主義 の画家 。18世紀 後半から19世紀 前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家のひとり。
生涯
1748年、フランスのパリ に商人の子として生まれる。1757年、9歳のときに父親が決闘で殺害され、その後裕福な叔父によって育てられる。ダヴィッドが絵に興味を示しはじめたとき、彼の叔父はロココ 絵画の大家で、ダヴィッドの母の従兄弟でもあるフランソワ・ブーシェ のもとへ送る。しかし当時50歳代だったブーシェは弟子をとっておらず、知人のジョゼフ=マリー・ヴィアン (1716年 - 1809年 )という画家を紹介し、ダヴィッドは師事する。
長い修業期間を経て、ダヴィッドは1774年 《アンティオコスとストラトニケ 》で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞 を得た。これはヴィアンに入門してから約10年後、26歳頃のことで、当時としては30歳頃が普通であり、少し早いデビューである。しかしダヴィッドは三年連続で落選したことを不服に思い、1772年にはハンガーストライキをおこなっている。この抗議は教師がもう一度絵を描くようにと励ますまで二日半続いた。ローマ賞受賞者は、国費でイタリア 留学ができる制度になっており、ダヴィッドも受賞の翌1775年 よりイタリアへ留学した。同年、師のヴィアンはローマ のフランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、師弟揃ってのローマ行きとなった。
ダヴィッドは1780年 までの約5年間、イタリアでプッサン 、カラヴァッジョ 、そしてカラッチ などの17世紀の巨匠の作品の研究に没頭する。こうしたイタリアでの研究を機に彼の作風は、18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変わっていく。ルイ16世 注文の《ホラティウス兄弟の誓い 》(1784年 )は王室から注文を受けて制作された最初の作品だが、サロンに出品された際に同時代の画家が「ダヴィッドこそ今年のサロンの真の勝利者である」と述べたほど大きな評判を集め[ 1] 、ダヴィッドの代表作の一つとなった。
1789年 、フランス革命 が勃発するが、このころのダヴィッドは、ジャコバン 党員として政治にも関与していた。《球戯場の誓い 》を描いている他バスティーユ牢獄襲撃事件 にも加わっており、1792年 には国民議会 議員にもなっている。1793年 には革命家マラー の死を描いた《マラーの死 》を制作している。1794年 にはロベスピエール に協力し、最高存在の祭典 の演出を担当、一時期国民公会 議長もつとめている。1793年までに、芸術委員会のメンバーとして、ロベスピエールを通じて多くの権力を獲得したダヴィッドは事実上フランスの芸術の独裁者となり、また王立アカデミーを即座に廃止したことで「筆のロベスピエール」とも呼ばれた。その後ロベスピエールの失脚に伴い、ダヴィッドの立場も危うくなり、一時投獄された。この時、自画像(未完成)と唯一の風景画を残している。
1795年の恩赦の後、ダヴィッドは革命と政治にそそいでいたエネルギーを若い画家へ教えることに切り替え、何百人もの若手画家の指導に専念した。
1797年にナポレオン・ボナパルト をスケッチしているが肖像画を完成させるには至らなかった。1799年の軍事クーデター のあと第一執政 に就任したナポレオンは、ダヴィッドにフランスの勝利を記念する絵を複数枚描くように依頼する。また1800年 にはレカミエ夫人 による依頼で肖像画を依頼され、《レカミエ夫人像》を制作したが未知の理由で未完成のままに終わった(ダヴィッドの仕事が遅すぎると思ったレカミエが、1802年に代わりに同様の肖像画を描くようにと彼の生徒の一人フランソワ・ジェラール に依頼したため仕上げる機会を失ったともいわれている)。その後、ナポレオンの庇護を受けて、1804年 にはナポレオンの首席画家に任命されている。縦6.1メートル、横9.3メートルの大作《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 》は1806年から1807年 に描かれたものである。1808年「帝国における騎士ダヴィッド」(Chevalier David et de l'Empire)の爵位を与えられた。1815年のナポレオンの失脚後、ダヴィッドはまたも失脚し、1816年 にブリュッセル へ亡命し、9年後の1825年に同地で時代に翻弄された77年の生涯を終えた。
ルイ16世 の処刑に賛成票を投じたことが災いし、彼の遺体はフランスへの帰国を許されなかったが、心臓が現在ペール・ラシェーズ墓地 に埋葬されている。
脚注
^ 鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991, pp. 92-97)
ギャラリー
参考文献
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主要事件
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軍事指揮官
フランス陸軍 フランス海軍対仏大同盟軍