イングリッシュ・エレクトリック ライトニングイングリッシュ・エレクトリック イングリッシュ・エレクトリック ライトニング (English Electric Lightning) は、イギリスのイングリッシュ・エレクトリック社が開発し、主にイギリス空軍で運用された超音速ジェット戦闘機。1960年に同社の航空機部門は国策企業のBACに統合されたため、BAC ライトニングとも呼ばれる。 Lightning とは「稲妻」の意。 特徴2基のジェットエンジンを前後にずらした上で縦に並べて配置するという、量産された戦闘機では後にも先にも例がないエンジン配置を採用している。先端の空気取り入れ口はコックピット後ろで上下に分かれ、主翼下にあるエンジンと胴体後方上のエンジンに空気を送る構造になっている。これは通常の並列配置よりも胴体を細くでき空気抵抗を減らすことが目的で、片方のエンジンが停止してもトリムが変化しないというメリットもあった。しかし、エンジンの点検整備や交換作業が煩雑になり、胴体内に燃料タンクを設けるスペースがなくなるというデメリットがあった。また、高温になりやすく、オイル漏れが発生するとすぐ火災に直結するという問題点もあり、イギリス空軍が損失した80機の内、約22機が空中火災によるものだった。エンジンの取り出しは機体の上下から行い、燃料タンクは機体下部を膨らましたような形で設置されている。 主翼はデルタ翼の空力的に必要性が無いとされる内縁部をカットしたような形状で、構造上は通常の後退翼と同じであり、図らずも後の標準たるクリップトデルタ翼の始祖になったと評価されている。これは離着陸時にデルタ翼機のような大仰角を強いないものの、翼内燃料タンクスペースは減少する。また、主翼下面には主脚が格納されるため大型のハードポイントが設置できず、増槽のような大型の装備は搭載できなかった。前述したように胴体内に燃料タンクが設置できなかった点もあり、増槽を主翼上面に装備するという苦肉の策が取られるなど幾度かの改良を経ても航続力が短く、兵器搭載量にも乏しいという欠点が付きまとった。 利点としてはマッハ2.0の速度を持ち特に運動性が良好であったライトニングは、同世代のF-104 スターファイターやミラージュ III等にも匹敵する制空能力をもち、局地防衛を重視した強力なエンジン推力は、後に登場するF-15 イーグルやSu-27 フランカーに劣らない上昇力をもっていた。本機は後にトーネード ADVによって更新されるが、上昇力に関しては本機のほうが優れていた。また、それまでのイギリス製戦闘機にない優れた性能をもつ照準器を装備し、レーダー性能などアビオニクスの点での進歩は著しかった。 開発経緯第二次世界大戦の戦費支出で経済力が疲弊したイギリスでは、クレメント・アトリーの労働党政権下で軍事費抑制が図られた。一方、米ソはドイツから研究人員ごと入手した先進的航空技術に青天井の予算を付けて発展させたため、超音速機の開発でイギリスは米ソに大きく立遅れる結果を招来した。 1947年に軍需省から、将来戦闘機に転換可能な超音速研究機 ER.103 仕様案が公表されると、卓抜した高々度性能の爆撃・偵察機キャンベラで知られるテディ・ペッター (William Edward Willoughby "Teddy" Petter) 主任技師以下イングリッシュ・エレクトリック社のチームが、フェアリー社のデルタ 2(FD-2)と共に呼応し、両機は実現に向けての基礎研究が開始された。 イングリッシュ・エレクトリック社(以下、EE)はロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント (RAE) と協働して、ロールス・ロイス エイヴォンを縦置き双発とし、テーパー (Taper) の無い鋭後退角矩形薄翼、低位置の水平尾翼を持ち、高度3万フィートでマッハ 1.5を目指す斬新なコンセプトを纏め上げた。 1948年12月に同様の外形を持つ無動力グライダーを製作し試験が行われた結果、1949年5月、ER.103 を元に超音速迎撃機化する計画案 F23/49 (1949会計年度戦闘機43号仕様書)が軍需省で承認され、P.1 の名で試作機の発注を受けたが、エイヴォンの実用化はサージング問題に直面し遅延していたため、一回り小さいアームストロング・シドレー サファイア Sa.5 を繋ぎに搭載する事になった。 P.1 計画着手時より、主に水平尾翼の取付位置を巡ってEE社と RAE との間で論争が巻き起こり(当時、イギリスには超音速風洞が存在しなかった)、T字尾翼案を主張する RAE は、競業社のショート・ブラザーズ社にダーウェント単発、固定脚の小型試験機ショート SB5を急造させ、飛行試験を敢行した。SB/5 は RAE 案に沿った後退角50度の主翼とT字尾翼で進空したが、ピッチアップ癖が顕著で、EE社案の正当性が実証された。SB/5 では3種の異なる主翼後退角がテストされた結果、原案通り60度が採用されたが、大仰角時の剥離流をコントロールするため外翼前縁にソーカットが新設された。 それと前後して、キャンベラ試作機の進空(1949年)を見届けたペッターはEE社を辞し、一族が経営するヘリコプター専業のウエストランド・エアクラフト社へ戻ってしまったため、P.1 の開発はフレデリック・ペイジ、後のブリティッシュ・エアロスペース社民間機事業部長が引き継ぐ事になったが、この間、高々度を高速で飛来するキャンベラを要撃可能な戦闘機が自国に無い状態が続いた。 試作機 P.1A 1号機 (WG760) は1954年5月にロールアウト、8月4日に初飛行し、水平飛行でマッハ1.2、緩降下でマッハ1.4をアフターバーナー無しのサファイアで記録する、素性の良さを示した。P.1A 2号機 (WG763) は最初からフェランティ社製AI.23火器管制装置、ADEN砲、後のファイアストリーク であるDH ブルージェイ(Blue Jay) パッシブホーミング空対空ミサイルを備え、航続力不足を補うため胴体下部に着脱式増槽を付加して実用化試験に供された一方、1号機は待望のアフターバーナー付サファイアに換装され、超音速試験のフィードバックから数々の改良が施された。 推力6000kgと強力なエイヴォン 200R (RA.24) を搭載し、機首の空気取入口にレドーム兼用のショックコーンを設けた、戦闘機型増加試作機 P.1B は1957年4月4日に初飛行し、2年間に20機が製作され、1958年のファーンボロー国際航空ショーの場で「ライトニング」という名称が初めて公表された。一方、P.1 開発中の1956年10月6日、同じエイヴォン単発のライバル、フェアリー デルタ2(FD-2)は1811km/hの世界速度記録を樹立するが、P.1 との競争に破れ制式採用されずに終わった。FD-2 1号機 (WG774) は1960年以降 BAC 221 と改名され、オージー翼に改造されてコンコルド開発の基礎データ収集に充てられた。 P.1B 改めライトニング F.1は50機が発注されたが、20号機は地上試験用に指定された後キャンセル、次の2機は複座練習機型の試作機となり、以降は全て小改良を加えたライトニング F.1Aとして生産された。実戦配備は翌1959年から進められたが、マクミラン保守党政権のダンカン・サンズ国防相は有名な1957年度国防白書に於いて、空軍の主力を有人機からミサイルに転換する大方針を打ち出し、ライトニング以外の軍用機は開発段階の如何に関わらず、原則として計画が中止されてしまった。このためライトニングはイギリスにおいて、「最後の有人戦闘機」と呼ばれ、事実、2014年現在に至るまで、イギリスが単独で開発した超音速戦闘機としては最初でありながら最後の事例、戦闘機として当初から開発された機体としても最後のものとなった(ただし他国との共同開発や、他目的の機体を戦闘機として転用した例はある)。 実戦配備ライトニングは第一線で使用されていたホーカー ハンター、グロスター ジャベリンのパイロットに歓迎されたが、マスメディアに注目されていたこともあって初期に受領した部隊は一種のお披露目を行わなければならなかった。 1960年12月14日、イギリス空軍の第56飛行隊がF.1Aの配備を開始し、1964年にライトニングを装備した防空部隊が編成され、防空部隊は侵入する高々度高速爆撃機に対処するため、たびたびスクランブル発進して要撃に向かった。イギリス本国だけでなく西ドイツやキプロス、シンガポールにも駐留し、防空任務に従事した。1970年を過ぎると低空を侵入する高速機も現われ始めたが、ライトニングは運動性を生かして防空任務を続けることができた。 イングリッシュ・エレクトリック社はエイヴォン Mk 210 ジェットエンジンを搭載して計器盤を一新したライトニング F.2を開発し、1961年7月11日に初飛行を実施。1962年12月にイギリス空軍は現行のライトニングと交代させるためF.2を受領した。加えて、コックピットを並列複座とした練習機型も配備され始めた。 さらに、イングリッシュ・エレクトリック社は新型の攻撃システムを搭載し、ルックダウン・レーダー、慣性航法機器、ミサイルシステムの一新などを盛り込んだ発展型の開発を進め、ライトニング F.3として提案を行ったが、イギリス空軍はホーカー P.1154やBAC TSR-2など新型機の登場を期待しており、政府も予算を理由に採用することはなかった。結局、ライトニング F.3は新型機が登場するまでの間を埋めるための機体として、エンジンの換装といったF.2の小改良に留めて約70機が生産された。 F.3に改良を加えたライトニング F.3Aは胴体下部燃料タンクを大型化すると共に、主翼上面に増槽を搭載できるようになり、ライトニング F.6として正式に量産された。一部のF.2もほぼ同仕様に改修されライトニング F.2Aとなった。多用途性を付加する計画も本格化したが、イギリス空軍は多用途型に関心を持たなかったため後述する輸出向けとして開発されることとなった。さらに主翼を可変翼とした複座艦上戦闘機型も提案のみに終わったため、イギリスのライトニングは終始迎撃戦闘機として運用されることとなった。その後、P.1154やTSR-2がキャンセルされてしまうと、イギリスはF-104 スターファイターの後継機であるパナヴィア トーネード ADVの国際共同開発に参加することになった。 20年以上もイギリスの防空などを担当したライトニングだったが、1974年にライトニングの転換訓練部隊である第226転換訓練部隊(No. 226 Operational Convarsion Unit)も解散され、第一線用の部隊はライトニングからブリティッシュ ファントムやトーネード ADVと交代していった。最後まで残っていた実戦部隊のうち第5飛行隊が1987年に解散、第11飛行隊も1988年に解隊された。現在は前線から退いた状態である。
エアショーなどライトニングの一部は、イギリスが開催するエアショーであるロイヤル・インターナショナル・エアタトゥーで稼働する姿が確認されている。なお、このショーに参加する他の機体にも言えることが、機体はタキシングとエンジン点火のみしか見せていない。 その他、[いつ?]南アフリカのケープタウンにあるサンダーシティ社で、複座型が遊覧飛行用として使用されている。 海外での採用国ライトニングは優れた戦闘機であったが、ハードポイントの増設やレーダーの換装により多用途性が付加された輸出型の海外セールスは同時期の他国の戦闘機と比較するとあまり芳しくなく、わずかにサウジアラビアとクウェートが導入したのみであった。 西ドイツ空軍に採用を働きかけたこともあったが、イギリス政府の支援を得られなかったことによりF-104G スターファイターに敗れてしまった。 日本の航空自衛隊による「第2次 次期主力戦闘機導入計画(第2次F-X)」の候補機に名前が挙げられたこともあるが、あくまで「第1次調査」における予備候補の域を出ることはなかった。 サウジアラビアに導入されたライトニングはイエメンとの紛争に投入され主に対地攻撃に使用された。 兵装前部胴体両側のパイロンに、ファイアストリークあるいはレッドトップ(F.3以降)空対空ミサイルを2発搭載する。この部分はミサイルパックとして独立しており、後述する他の装備に換装することが可能だった。 初期型は、固定武装として機首上面に30mm ADEN機関砲を2門装備しており、ミサイルパックと交換でさらに2門追加することも可能だった。ただ、機首上面の機関砲は発射時のガスとフラッシュがパイロットの視界を妨げるため歓迎されず、発射口を塞いでしまう機体もあり、F.3では完全に撤去された。F.3A以降は胴体下燃料タンクの前部を機関砲パックと交換することが可能となり、再び装備できるようになった。練習機型は機関砲を装備していないが、単座型と同じレーダーと空対空ミサイル運用能力を持ち、戦闘能力を維持している。 F.3Aから主翼上面に搭載可能となった増槽は、フェリー飛行用のため戦闘任務には使用されないが、緊急時には尾翼に衝突しないよう角度をつけて切り離すことができた。 輸出型では、ミサイルパックを引き込み式ロケット弾パックや写真偵察用カメラパックに換装することができた。 各種型付与コードについては軍用機の命名規則 (イギリス)のマーク・ナンバーを参照。
性能諸元 (F.6)出典: Air Vectors[1]. 諸元
性能
武装
脚注・出典
注釈
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