1783年彼の最初の著作は、匿名でに出版された『チャタム卿の生涯』(Life of Lord Chatham)である。
1785年までに書かれた3つの小説は今では忘れられている。
1793年フランス革命直後、ゴドウィンの最も成功した著作『政治的正義』(Enquiry concerning Political Justice, and its Influence on General Virtue and Happiness 直訳すると『政治的正義に関する論考と、一般的美徳や幸福へのその影響』)が四つ折り版2冊で、3ギニーという値段で売り出された。英国制にとって危険な思想であるため出版に対する検閲はあったものの、高価な専門書であることから市販されるに至った。しかし、当局の想定とは異なり、労働者たちは資本を出し合って購入し、これを読み漁ったという。たちまち著者は当時の最も有力な社会哲学者として知られるようになり、その本はミルトンの『言論・出版の自由 アレオパジティカ』やロックの『教育論』、ルソーの『エミール』に並ぶ地位を与えられた。サウジーやコールリッジ、ワーズワースのような青年詩人は当時大学生であったが、この本をむさぼり読み、政治教育の糧とした。『政治的正義』は4版を重ね、フランス革命の余波がイギリスで拡大し、首相ピットが騒擾の鎮圧に乗り出すようになり、ゴドウィンは政府や財産への攻撃を第2版後はゆるめた。
1794年、社会派サスペンス小説の古典となった『ケイレブ・ウィリアムズ』(Things As They Are; or The Adventures of Caleb Williams 直訳すると『あるがままの物事、或いはケイレブ・ウィリアムズの冒険』)出版。
1797年、ゴドウィンは、メアリ・ウルストンクラフトと結婚し教会で結婚式を挙げた。夫妻は結婚制度の廃止を唱道する者であったが、生まれてくる子どものために論を翻したと主張されている。同年8月30日 ロンドンで、娘メアリ・ウルストンクラフト・ゴドウィン(後の作家メアリ・シェリー)が生まれた。同年9月10日、38歳でメアリ・ウルストンクラフトが産褥熱のため死亡。同年、ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』への批判を意識しつつ、彼のアナキズム教育思想を展開した論文集『探求者―教育、礼儀、文学の省察』(The Enquirer; Reflections on Education, Manners, and Literature)出版。