エイブ・ジェイコブズ
エイブ・ジェイコブズ(Abe Jacobs、1928年6月18日 - 2023年8月21日[3])は、ニュージーランド出身のプロレスラー[4]。 レスリングの下地を持つ実力派の中堅レスラーとして、アメリカ合衆国のNWAミッドアトランティック地区などを主戦場に活動した[4]。 日本ではアベ・ヤコブの表記および呼称で知られ、覆面レスラーのレッド・ピンパネールとしても活躍した[1]。 来歴父親の経営していた牧場で子供の頃から働きながら体を鍛え[5]、10代半ばよりレスリングとウエイトリフティングを開始[4]。レスリングではカンタベリーの州タイトルを3回、ウェリントンの州タイトルを4回獲得し、全国大会でも優勝を果たした[4]。1956年メルボルンオリンピックの選考会にも参加したが、対戦相手の選手に1ポイント差で敗れ、五輪への出場を断念している[4]。 その後、プロ転向を決意し、ファビュラス・カンガルーズのアル・コステロおよびニュージーランドに遠征していたゼブラ・キッドのバックアップのもと、1958年にデビュー[5]。ゼブラ・キッドことジョージ・ボラスは自身もアマチュアレスリング出身であったことから、ジェイコブズのキャリアを気に入って各地のプロモーターに売り込んだという[5]。 ニュージーランドで10試合ほど行った後にハワイに渡り[5]、チャーリー・カラニ、サム・スティムボート、ボブ・シブヤ、ラッキー・シモノビッチらと対戦[6][7]。1959年よりアメリカ合衆国本土に進出して、WWWFの前身団体であるノースイーストのキャピトル・レスリング・コーポレーションで活動[2]。ユダヤ系ニュージーランド人のベビーフェイスとして、ジョニー・バレンタイン、ブル・カリー、シーク・オブ・アラビア、ジェリー・グラハム、ジョン・トロス、スカル・マーフィー、キラー・コワルスキー、バディ・ロジャースといったヒールのビッグネームと対戦し、アントニオ・ロッカのパートナーにも起用された[8][9]。 1962年にはロサンゼルスのWWAに登場。地区デビュー翌日の10月30日、ヘイスタック・カルホーンと組んでインターナショナルTVタッグ王座を獲得している[10]。翌月29日にザ・デストロイヤー&ドン・マノキャンにタイトルを奪われるも、WWAではグレート東郷やミスター・モトとも対戦した[11]。1964年からは南部のNWAフロリダ地区に参戦。5月5日にドン・カーティスと組んでデューク・ケオムカ&ヒロ・マツダからフロリダ版のNWA世界タッグ王座を奪取した[12]。7月17日にはマイアミビーチにおいて、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも挑戦している[13]。 1966年末、アベ・ヤコブの名義で日本プロレスに初来日し、12月30日の後楽園ホールでの前夜祭(芳の里に勝利)を経て、バディ・オースチンらと共に翌1967年1月開幕の『ニュー・イヤー・シリーズ』に参戦[14]。2月6日に札幌中島スポーツセンターにおいて、ミスター・アトミックと組んで大木金太郎&吉村道明のアジアタッグ王座に挑戦した[14]。 1968年より、長年の主戦場となるNWAミッドアトランティック地区に定着。シューターとして知られたルーサー・リンゼイのパートナーとなり、ジン・アンダーソン、ラーズ・アンダーソン、オレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーと抗争を展開した[15]。同年1月27日にはバージニア州ロアノーク、29日にはノースカロライナ州シャーロットにて、ジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している[16]。ミッドアトランティックでは、同じくレスリングの強豪だったティム・ウッズとも度々タッグを組んだ[17]。 1972年9月、カール・ゴッチのブッキングにより、レッド・ピンパネール(Red Pimpernel)なる赤覆面のマスクマンに変身して新日本プロレスの『ニュー・ゴールデン・シリーズ』に参戦[1]。この変身は旗揚げシリーズに来日したジム・ドランゴことボブ・アームストロングなどと同様、NWAに非加盟だった当時の新日本プロレスに、アメリカと同じリングネームのまま出場することができなかったためとされる[18]。シリーズ中は外国人エースを務め、10月9日に広島県立体育館において、アントニオ猪木の世界ヘビー級王座(同月4日に猪木がゴッチから奪取したタイトル)に挑戦した[19]。 以降も新日本プロレスにはレッド・ピンパネールとして、タイガー・ジェット・シンが初来日した1973年5月開幕の『ゴールデン・ファイト・シリーズ』にも参戦[20]。最後の来日となった1974年10月開幕の『闘魂シリーズ第2弾』には素顔で試合に出場し、アンドレ・ザ・ジャイアントともタッグを組んだ[21]。 アメリカではミッドアトランティックを主戦場としつつ、南部の各テリトリーにも出場。1976年7月8日にはテキサス州アマリロにおいて、ペッツ・ワトレーと組んでNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を獲得[22]。ザ・ファンクスが主宰していた同地区では、リップ・ホーク&スウェード・ハンセンのブロンド・ボンバーズともタイトルを争った[23]。 1976年は新日本プロレスのブラジル遠征にも参加しており、ウィレム・ルスカとイワン・ゴメスがセメントマッチを行った8月7日のリオ・デ・ジャネイロ大会では猪木とシングルマッチで対戦した[24]。 その後はベテランのアンダーカード要員として、1980年代前半までミッドアトランティック地区のハウス・ショーやTVテーピングに出場していた[2]。引退後はシャーロットにおいて、リッキー・スティムボートのジムの管理者を務めていた[25]。1995年5月20日にはジム・コルネットが主宰していたスモーキー・マウンテン・レスリングのイベント "Carolina Memories" に、ミスター・レスリング、ネルソン・ロイヤル、ジョニー・ウィーバー、マグナムTAらと共にミッドアトランティックのレジェンドとして出席した[26]。 存命のプロレスラーでは世界最高齢として知られたが、2023年8月21日、シャーロットにて95歳で死去[3]。 得意技
獲得タイトル
脚注
外部リンク
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