1934年11月21日に17歳のエラは初めて聴衆の前にデビューした。ニューヨークのハーレムに存在したアポロ・シアターにおけるアマチュア・ナイツでダンスを披露する予定だったエラは、自分の前に出演した地元のダンス・デュオの演技に圧倒され、予定を変更し自分のアイドルであるコニー・ボズウェルのスタイルを真似て歌を披露した。その夜のコンテストに勝利した彼女はチック・ウェブズ・バンドのBardu Aliに見出され、バンドへの誘いを受けた。翌1935年からエラはハーレムのサヴォイ・ボールルームでチック・ウェブズ・バンドをバックに歌手活動を開始した。このバンドと共に、当時のヒット曲を納めた数枚のレコードを作成している。当時病気で療養中であったチック・ウェブのためにヴァン・アレクサンダーと共に作成した一曲『ア・ティスケット・ア・タスケット』が17週間にわたりチャートトップを記録し、アルバムは100万枚のセールスをあげた。1939年にウェブが死亡すると、バンドは名称を"Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra"へと変更し、ツアーなどの活動を継続した。
Ella Fitzgerald Sings the Irving Berlin Songbook (1958年、ポール・ウェストン)
Ella Fitzgerald Sings the George and Ira Gershwin Songbook (1959年、ネルソン・リドル)
Ella Fitzgerald Sings the Harold Arlen Songbook (1961年、ビリー・メイ)
Ella Fitzgerald Sings the Jerome Kern Songbook (1963年、リドル)
Ella Fitzgerald Sings the Johnny Mercer Songbook (1964年、リドル)
エラはコール・ポーターとジョージ・ガーシュウィンの作品を取り上げたアルバム、それぞれ『Ella Loves Cole』と『Nice Work If You Can Get It 』を作成した。パブロ・レコード時代にはアントニオ・カルロス・ジョビンの曲を唄った『Ella Abraça Jobim』をリリース。これらのレコーディングの合間を縫ってアメリカ国内と外国へのツアーを行っている。
ヴァーヴ時代には幾つかのライブアルバムをリリースした。『Ella at the Opera House』、1950年代の『Ella in Rome』、1960年の『Ella in Berlin』、1964年の『Ella at Juan-Les-Pins』、1966年の『Ella and Duke at the Cote D'Azur』などはいずれも、現代に至っても高い評価を受けている。
1970年代、ノーマン・グランツが設立したパブロ・レコードから多数の作品を発表。健康状態の悪化により、痩せて眼鏡をかけた姿となり、声にも衰えが見られた。1989年の『All That Jazz』が最後のアルバムとなった。
エラは2度の結婚を経験している。1度目は1941年にベニー・コーネゲイと結婚したが、彼は麻薬の密売と詐欺で有罪を宣告され、結婚も早々に解消された。1947年には著名なダブル・ベース奏者であったレイ・ブラウンと再婚した。2人はエラの義理の姉妹の子を養子にとり、レイ・ブラウン・Jrと名付け養育した。1952年に2人は離婚した。1957年7月にはロイターにより、エラがオスロ生まれのノルウェー人 Thor Einar Larsen と結婚する予定であると報じられたが、彼が以前に結婚詐欺を犯していたことが判明、婚約も解消された。1958年8月に編曲家でElla Fitzgerald Sings the Irving Berlin Songbookのレコードの指揮者でもあったポール・ウェストンにパテック・フィリップの腕時計Ref.2452(当時家一軒分の値段)を贈った。[2]