カネヒキリ
カネヒキリ(欧字名:Kane Hikili、2002年2月26日 - 2016年5月27日)は日本の競走馬・種牡馬[1]。主な勝ち鞍は2005年のジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、2005年・2008年のジャパンカップダート、2006年のフェブラリーステークス、2008年の東京大賞典、2009年の川崎記念。2005年と2008年のJRA賞最優秀ダートホース。現役時代は、雷神と呼ばれた。[8] 概要馬名はハワイ語で「雷の精」の意。現役時代は自身と同じ金子真人ホールディングスの所有馬であり、また主戦騎手も武豊が務めていたノーザンファームの同期のディープインパクトになぞらえて砂のディープインパクトと呼ばれた[9]。 競走馬として2004年 - 2005年2004年7月31日新潟第5競走で、柴田善臣を背に3番人気でデビューしたが、4着に敗れた。同競走の勝ち馬は、のちにフェアリーステークスを勝利するフェリシアだった。次の小倉の未勝利戦でも11着と惨敗した。 しかし、年明けの2005年2月13日の京都第2競走未勝利戦では、初めてのダート戦で人気も9番人気まで落ちたが、2着に7馬身差をつける圧勝だった。ここから、ダート路線での快進撃が始まり次の500万下条件戦では2着に大差勝ち。芝の毎日杯7着をはさんで、ダートに戻った端午ステークスでは2着に9馬身差、初のダート重賞ユニコーンステークスでは2着に1馬身4分の3差で重賞初制覇を達成した。勢いそのまま、ジャパンダートダービーは後続に4馬身差をつけ、GI初制覇を成し遂げた。続くダービーグランプリでも直線鮮やかに抜け出して勝利を収め、3歳ダートGI二冠を達成した。 古馬との初対戦となった武蔵野ステークスでは芝スタートのため脚を滑らせて出遅れ[10]、追い込み届かずサンライズバッカスの2着に敗れてダート戦初黒星を喫した。しかしジャパンカップダートでは、シーキングザダイヤ、スターキングマンとの叩き合いをコースレコードで制し、中央GI初制覇を果たした。これは騎乗した武豊の中央競馬史上初となる3年連続200勝達成の勝利でもあった。 これらの活躍が評価され2005年度JRA賞最優秀ダートホースを受賞した。 2006年ジャパンカップダート以来の休養明け初戦となるフェブラリーステークスでは前年度の覇者メイショウボーラーや船橋の実力馬アジュディミツオーなどが参戦する中、2着シーキングザダイヤに3馬身差で勝利。フェブラリーステークス後はドバイワールドカップに出走するが、エレクトロキューショニストの5着に敗れ、2着のブラスハットの失格により4着に繰り上がった。ブラスハットの関係者から異議申し立てがあったため最終的な着順決定が遅れたが、6月29日に4着と決定した。そしてドバイ後の初戦となる6月28日の帝王賞は、地方最強馬アジュディミツオーとの一騎討ちとなり、アジュディミツオーの逃げに1馬身及ばず2着に敗れた。 その後、マイルチャンピオンシップ南部杯を目標とし調整が続けられていたが、屈腱炎を発症。復帰を目指し長期休養に入った。[11] 2007年 - 2008年2007年9月9日に帰厩し、復帰レースとなる武蔵野ステークスに向けて調整されていたが右前浅屈腱炎を再発し[12]、9月12日にノーザンファームへ放牧に出され療養した。再生治療のために幹細胞を損傷部に移植する手術(ステムセル移植)が行われた。同厩馬のフラムドパシオンは臀部の脂肪組織にある幹細胞を移植したのに対し、カネヒキリは胸骨の骨髄液を右前脚の腱に移植した[13]。 2008年、療養を終えて10月1日に帰厩した。そして約2年4か月ぶりに出走した武蔵野ステークスでは2番人気に支持されたが、道中では終始掛かり気味に競馬を進め、直線に向いてからは仕掛けどころで周りの馬たちが傘の様な壁となり前にも横にも抜け出すことができず、脚を余して9着に敗れた。 12月7日、阪神競馬場に舞台を移したジャパンカップダートに出走。これまでの実績を評価されて単勝4番人気に推された。レースは骨折の武豊に代わり初騎乗となったクリストフ・ルメールがスタート良く好位につけてインコースを走らせ、第4コーナーを回ったあたりで先頭に立ち、追走するメイショウトウコン、ヴァーミリアンを振り切り、2006年フェブラリーステークス以来、2年10か月ぶりの勝利を2度目の同競走制覇で飾った。ジャパンカップダートの2度制覇は当馬が初めてである。また、この勝利で東京と阪神両方のジャパンカップダートを制したこととなり、これは中央競馬における唯一の記録である。 その後、12月29日に大井競馬場で行われた東京大賞典に2番人気で出走。最後の直線で、1番人気のヴァーミリアンを一騎討ちの末、クビ差で制して勝利した。これらの活躍が評価され2008年度JRA賞において最優秀ダートホースに選出されている。 2009年2009年は川崎記念から始動、鞍上は引き続きルメールが務めた。レースではフリオーソの2番手でレースを運び、最後の直線で逃げるフリオーソを半馬身かわして、平地GI (JpnI) 勝利数最多タイ(当時)となる7勝目を飾った。 2月22日、GI (JpnI) 4連勝を目指しフェブラリーステークスに出走。全出走馬中最速の上がりで詰め寄るも、サクセスブロッケン、カジノドライヴと同タイムの3着に敗れた。5月5日にはかしわ記念に出走し、エスポワールシチーの2着に敗れた。この競走後鞍上の内田博幸が脚元に違和感を覚えたために下馬[14]。翌日に行われた精密検査で左第3指骨々折が判明、1年間の休養に入る[15]。 2010年当初の復帰初戦は宝塚記念を予定していたが、陣営が「ダートにしたい」という理由でプロキオンステークスへの出走が検討されていた。ところが、大井競馬を主催する特別区競馬組合がダートグレード競走出走資格の変更を行い、従来出走を認めていなかった1年以上休養した馬でも、ゲート試験に合格すれば出走を認めることとし、当年の帝王賞からこの規定が適用されることとなった[16]。無事にゲート試験に合格し、晴れて出走可能となった帝王賞では横山典弘を鞍上に迎え、中団からの押し切りを試みたが、フリオーソから2馬身半離され2着に敗れた。7月19日のマーキュリーカップでは逃げるマコトスパルビエロをマークし、2番手でレースを進めると3〜4コーナー中間で先頭に立ち、後続に5馬身差をつけ圧勝し前年の川崎記念以来となる勝ち星を挙げた。8月12日のブリーダーズゴールドカップでは圧倒的1番人気に支持され、レースでは好位で追走し直線でいったん先頭に立つもシルクメビウスにかわされ4馬身差の2着に敗れた。 その後は日本テレビ盃に向けて調整が行われていたが、9月5日、新潟競馬場にて角居調教師より、右前脚の以前とは違う個所に加え、左前脚にも浅屈腱炎が発症したことから、年齢を鑑み引退することが発表され、9月17日付で競走馬登録が抹消された[17][18][19]。 競走成績
※ タイム欄のRはレコード勝ちを示す。 種牡馬時代2011年から優駿スタリオンステーションにて種牡馬入り。総額9600万円(1口160万円×60口)のシンジケートが組まれ、早々に満口となった。初年度の種付け料は60万円(受胎条件)または80万円(出生条件)[20]。初年度は6月に網嚢孔ヘルニアを発症して手術を受けたためその年の種付けを中断するアクシデントに見舞われたものの、それでも約170頭に種付けをする人気で[21]、2012年も175頭に種付けと好調を維持している。 2014年5月21日門別競馬第5競走・JRA認定フレッシュチャレンジで、コールサインゼロが産駒初勝利をあげた。 2016年5月27日、繋養先の優駿スタリオンステーションにて、種付け中の事故により死亡した。14歳没[9]。 グレード制重賞優勝馬
地方重賞優勝馬
母父としての主な産駒地方重賞優勝馬
血統表
脚注
参考文献外部リンク
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