ギャング・オブ・ニューヨーク
『ギャング・オブ・ニューヨーク』(Gangs of New York)は、2002年のアメリカ映画。ミラマックス配給。 概要『ギャング・オブ・ニューヨーク』はハーバート・アズベリーが1928年に出版した同名の著書から着想を得た映画で、1863年のニューヨーク・マンハッタンの一角であるファイブ・ポインツを舞台に繰り広げられるギャングの抗争と人間ドラマを描いたもの。2001年5月のカンヌ国際映画祭にダイジェスト版として公式出品されたのが初出。 監督のマーティン・スコセッシは「構想に30年を要した」と語っている。撮影はローマ郊外の大規模映画スタジオである「チネチッタ」に当時のニューヨークの町並みを完全再現して行われ[3]、撮影期間270日、制作費約150億円を投じて制作された。 本作品は、第75回(2002年)アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞・撮影賞・編集賞・美術賞・衣装デザイン賞・歌曲賞・録音賞の10部門にノミネートされたが何れも受賞には至らなかった(本来の主演はレオナルド・ディカプリオとされていたが、主演男優賞にノミネートされたのはダニエル・デイ=ルイスだった)。その他の賞として監督のマーティン・スコセッシはゴールデングローブ賞 監督賞を受賞。ダニエル・デイ=ルイスは英国アカデミー賞で主演男優賞を受賞した。 あらすじ19世紀初頭のアメリカ・ニューヨークでは、大飢饉に見舞われた故郷を離れ、アメリカン・ドリームを夢見たアイルランド人の移民達が毎日のように港から降り立っていた。しかし、貧しい彼らが住むことが出来たのは安アパートや売春宿の密集する混沌の町ファイブ・ポインツであり、そこは"ネイティブ・アメリカンズ"と名乗るアメリカ生まれの住人達の縄張りであった。"ネイティブ・アメリカンズ"に対抗する為、アイルランド移民達は徒党を組み、"デッド・ラビッツ"という組織を作り上げた。 1846年、"ネイティブ・アメリカンズ"と"デッド・ラビッツ"の抗争は熾烈を極め、ついにファイブ・ポインツの利権を賭けて最後の戦いが始まる。その戦いとは、"デッド・ラビッツ"のリーダーであり、少年・アムステルダムの父親でもあったヴァロン神父と"ネイティブ・アメリカンズ"のリーダー、ビル・ザ・ブッチャーの一対一の決闘であったが、戦いの果てにヴァロン神父はビル・ザ・ブッチャーに殺され、抗争は"ネイティブ・アメリカンズ"の勝利に終わった。勝者のビルは敗れはしたが勇猛果敢なリーダーにして戦士であったヴァロン神父に敬意を表し、「死者の体に触れてはならず、何も奪ってはならぬ」と周りに説くが、アムステルダムはその言葉に反し、ヴァロン神父を刺したまま残されていたビルのナイフを奪い取る。それに気付いたビルの手下たちがアムステルダムをヴァロン神父の息子という事もあって捕まえようと騒ぎだし、最終的にはナイフを誰にも気づかれない場所には隠すものの捕えられ、プロテスタント系の少年院に投獄されてしまう。プロテスタントの聖書を押し付けられ、その教えに反すると見なされるや鞭打たれるのが日常の監獄の中、アムステルダムは一人、ビル・ザ・ブッチャーへの復讐を誓った。 それから16年の月日が経った。出所するやプロテスタントの聖書を近くの川へと捨て、背中に鞭打たれた傷を負った、成長したアムステルダムは隠していたビルのナイフを懐に入れて、再びファイブ・ポインツへ帰ってきた。しかしそこは既に"ネイティブ・アメリカンズ"が牛耳る腐敗した町となっていた。町はかつての"デッド・ラビッツ"のメンバーを含めたアイルランド系の者ですら"ネイティブ・アメリカンズ"に媚を売るか、鞍替えして入団するという有様であり、中国系の面々も表面上は従属してはいるが内心は不満を大いに抱えていた。そのような中でアムステルダムは素性を隠し、"ネイティブ・アメリカンズ"へ入団する。やがて持ち前の才能と度胸でめきめきと頭角を現し、"ネイティブ・アメリカンズ"のリーダー、ビルにも一目置かれる存在へとなっていった。そしてアムステルダムの方も、敵であるビルの人となりを近くで見るうちに、いつしか思慕の念すら感じるようになる。そんな中、アムステルダムは女スリ師のジェニーと運命的な出会いを果たす。互いに惹かれ合い始める二人であったが、ビルにアムステルダムの素性が知られてしまい、闇討ちを計った卑怯者ということで裏切り者と罵られ、私刑にあい、"ネイティブ・アメリカンズ"を追放させられてしまう。 ジェニーの制止を振り切り、アムステルダムは新生"デッド・ラビッツ"を結成し、ファイブ・ポインツを賭けた最後の戦いに挑む。しかしまさにその日、ただでさえニューヨークの住民、とりわけ徴兵を免除されるのに必要な特別税を払う余裕の無い貧困層をはじめとするの住民達が南北戦争を進める政府に反感を抱く中、遂に耐えかねた住民達による大規模なニューヨーク徴兵暴動が勃発。暴徒が荒れ狂い、陸海軍が暴徒に無差別攻撃を浴びせる地獄絵図の中、アムステルダムはビルと一対一の対決に臨む。 スタッフ
キャスト
日本語吹き替え
製作マーティン・スコセッシがハーバート・アズベリーのノンフィクション『ギャング・オブ・ニューヨーク』に感銘を受け、古きニューヨークに生きた犯罪者やギャング、移民などのアメリカのルーツを描く作品を撮りたいと思い始めたのは1970年ごろであったという[6]。この想いを友人でもあった脚本家ジェイ・コックスに打ち明け、意気投合したことから『ギャング・オブ・ニューヨーク』映画化という具体的な企画が立ち上がった。コックスは主人公となるアムステルダム・ヴァロンというキャラクターを生み出すに当たって、ブルース・スプリングスティーンの歌詞に非常に強いインスピレーションを受けたと語っている。 着想からさらに20年以上にわたり、スコセッシはコツコツとシナリオを書き続け、スティーヴン・ザイリアンやケネス・ロナガンらも交え、推敲を重ねながら作られていた。主役となるレオナルド・ディカプリオも1991年ごろからこの企画に参加し、スコセッシと共同でビル役にと目をつけたダニエル・デイ=ルイスの説得にあたる[7]などしていた。 配役が決まった後、1863年のニューヨークを完全再現するという作業に取り掛かることになった。これはちょうどその頃、ニューヨーク・マンハッタンで発掘作業を行っていた建築家によって発掘された当時の皿や櫛といった85万点というアイテムを借り受けることで実現可能となった[8]。スタジオが決まり、それぞれのセットが決まると数ヶ月という異例のスピードでローマ・チネチッタスタジオに1846年及び1863年のニューヨークが再現された。 チネチッタでの撮影は127日間にわたり、2001年3月30日に終了した。 背景アズベリーの著書1928年に出版されたハーバート・アズベリーの『ギャング・オブ・ニューヨーク』は、19世紀初頭から約100年間に渡るニューヨークのギャングたちの社会を書き綴った歴史書である。映画はそのごく一部をドラマとして再構成したものであり、映画の背景を理解するには原著が有用であるが、原著をそのまま映画化したものではない。2001年にハヤカワ文庫から日本語版が出版された。 実在のギャングとの関係レオナルド・ディカプリオ扮するアムステルダム・ヴァロンは本作にのみ登場する架空の人物である。一方、ビル・ザ・ブッチャー、モンク、ジョニー・シロッコなどはそれぞれウィリアム・プール (ビル・ザ・ブッチャー)、モンク・イーストマン、ジャック・シロッコといった実在のギャングをモチーフとしているが、ウィリアム・プールは1855年に死亡しており、モンク・イーストマン、ジャック・シロッコは後の時代の人物であるなど、史実に忠実ではない。 公開の延期本来、本作品は2001年のクリスマスに世界同時一斉公開を予定していたが、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の影響で公開が1年以上延期されるという事態が発生している。映画のエンディングには、スコセッシによる世界貿易センタービル崩壊に対しての祈りとテロリズムに対する怒りのコメントが追記された。 脚注
参考文献
関連項目外部リンク |