サンドロ・ムナーリ
サンドロ・ムナーリ(Sandro Munari、1940年3月27日 - )は、イタリア出身の元モーターレースドライバー、元ラリードライバー。ランチア・ストラトスを駆りラリー・モンテカルロを3連覇し、「ドラーゴ・ディ・カヴァルツェレ」(カヴァルツェレのドラゴン、伊: Il Drago di Cavarzere)と呼ばれた。 経歴ヴェネト州カヴァルツェレで生まれたサンドロ・ムナーリは1965年にラリーを始め、フィアット及びランチアチームに加わると1967年と1969年にイタリア・ラリー選手権を制覇、1973年にヨーロッパ・ラリー選手権タイトルを成し遂げる。 ムナーリにとってラリー・モンテカルロは特別なラリーラウンドのひとつとなる。初出場は1966年。新参であるもののランチアチームを最上位へと引っ張る力は事実チェーザレ・フィオリオの目に留まり、一手にオファーを受ける事となったが、1968年、ムナーリにとって生涯忘れる事の出来ない悲劇を経験する。アテネからモナコへと向かうモンテカルロ特有のコンサントラシオン中、助手席で仮眠をとっていたムナーリは翌日に目覚めると、そこは病院のベッドの上。一般車との衝突でランチア・フルヴィアHFを運転していたコ・ドライバーであるルチアーノ・ロンバルディは死亡。ムナーリ自身も重傷を負うアクシデントとなる。一度は1967年限りで引退を決めていたロンバルディであったが、「ムナーリのために」と挑んだ最後の一戦での出来事であった[1]。しかしそれでもムナーリはラリーをやめることはなかった。 彼はランチアのラリー・アイコン、「ランチア・ストラトス」としばしば結び付けられる。1971年、ストラトスの開発ドライバーとして組み入れられ、様々な意見を寄せると1972年は更にフルヴィアHFで初のメジャーラリーであるラリー・モンテカルロを制し、ストラトスの熟成が進むと1973年にツール・ド・フランス・オートモビルを制す。その後このイタリア車とイタリア人ドライバーのコラボレーションは計7回WRC優勝を果たし、1976年開幕戦ラリー・モンテカルロ[2]ではエースのムナーリ、そしてストラトス使いとして名をはせるビョルン・ワルデガルドと、ベルナール・ダルニッシュにワークス・ストラトスが託される。ラリーでムナーリのストラトスは他の追随を許さない速さを見せ付け、ムナーリが優勝、ワルデガルド、ダルニッシュの順に1-2-3フィニッシュを果たし、時にはギャンブル性が孕むタイヤチョイス面においても、75、76、77年モンテカルロ3連覇と言う快挙を成し遂げ、ストラトスと共にスタードライバーとしての黄金期を歩む。1976年のワルデガルドとの確執[3]による移籍でフォード・エスコートRS1800と対峙する事になったその後、1977年FIAカップ・ラリードライバーズタイトルも手中に収める。 ランチアが看板を掛け替えたフィアットとなってからはフィアット 131 アバルトをドライブ。1979年ツール・ド・コルス3位、1980年ラリー・コートジボワールで6位となった。 1981年からはワークスを離れ、1984年のサファリラリーまではプライベーターとしてそれぞれダッジ・ラムチャージャー、ポルシェ・911SC、アルファロメオ・GTV6、トヨタセリカ・ツインカムターボと多彩な車種で挑んだが、それぞれリタイアに終わった。 レースラリーストとしての活躍が知られるが、サーキットレースでのスキルも持ち合わせている。スポーツカー世界選手権であるタルガ・フローリオを、ランチアラリーチームの母体(地元有力ディーラーチームからのスタート)であるチェーザレ・フィオリオ率いるランチア・HFスクアドラコルセがそれまでのランチア・フルヴィアHFでラリーワークスドライバーをスポット的に走らせていた経緯上[4]、1970年より起用されていたムナーリは1972年、フィオリオが代行指揮をとるフェラーリに引き寄せられ、アルトゥーロ・メルツァリオと組みフェラーリ 312P/Bを駆り、タルガで勝利を収める。後述する1973年にプロトティーポとして走る事になる開発途上のストラトスへ搭載するエンジン獲得の為の勝利でもあった。 73年にストラトスで2位を収めた以降、ヨーロッパ中のサーキットを巡るジーロ・デ・イタリアをも制すとその後のラリーでの活躍は決してフロックではない事を証明していくこととなる。1977年にもターボ化し、Gr.5に発展したストラトスでも勝利を挙げる。 戦績タイトル
世界ラリー選手権での勝利
世界ラリー選手権リザルト
参考文献
脚注
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