ミキ・ビアシオン
マッシモ・「ミキ」・ビアジオン (Massimo 'Miki' Biasion, 1958年1月7日 - )はイタリアヴェネト州バッサーノ・デル・グラッパ出身のラリードライバー。1988年、1989年の世界ラリー選手権 (WRC) ドライバーズチャンピオン。 経歴ビアジオンの親はイタリア語で天使ミカエルを意味する"ミケーレ"と名づけるつもりだったが、祖父が役所に届けた名前がマッシモだったため、それが戸籍上の名前となった。愛称のミキはその両親が考えた名前に端を発して付いたようだ。 子供の頃から車が大好きで、歯医者へ連れて行く際にはミニカーをあげなければならなかったため、たちまち棚はミニカーでいっぱいになった。ジェームズ・ボンドのアストンマーティンと、1960年代のラリー・モンテカルロで優勝したのミニがお気に入りだった。母はヴェネトで初めてライセンスを取得した女性で、サンドロ・ムナーリのレースを見に連れて行っていた。父はスーパー経営者で、ビアシオンは休日には宅配用のルノー・4を駐車場で運転していた。スピードの出るものも好きで、子供時代はスキーとモトクロスに熱中した[1]。 1980年にオペル・アスコナに乗りWRCデビュー。1983年はランチアのセミワークスであるジョリークラブ (Jolly Club) に加入し、ランチア・ラリー037に乗りイタリアラリー選手権とヨーロッパラリー選手権 (ERC) を制覇する。1986年にはチェーザレ・フィオリオ率いるランチアワークスに昇格。デルタS4に乗り、ヘンリ・トイヴォネンの事故死という悲劇を乗り越え、アルゼンチンでWRC初勝利を飾る。 グループA移行後、ビアジオンは名車ランチア・デルタシリーズを駆り全盛期を迎える。1987年はチームメイトのマルク・アレン、ユハ・カンクネンらと三つ巴のタイトル争いとなるが、6ポイント差で惜しくもカンクネンに敗れる。翌1988年はデルタ・インテグラーレに乗り、出場した7戦中5勝を挙げて悲願のWRCタイトルを獲得する。1989年も出場6戦中5勝を挙げ、タイトル連覇を達成。1990年は2勝するもWRC初の3連覇はならず、トヨタのカルロス・サインツが初タイトルを獲得した。 1991年は0勝に終わり、チーム代表がレーシング畑のジョルジョ・ピアンタに代わると、チーム首脳との関係が悪化。これによって、1992年は長年在籍したランチアを離れ、フォードに移籍する。しかし、フランスの若手、フランソワ・デルクールを中心としたチーム運営に加え、チーフ・エンジニアのフィリップ・ドゥナビンを始め、役所体質と言われた独特のチーム運営がミキのフラストレーションを高め、なかなか思うような成績を出せなくなり、終いにはチームの組織編成に伴いマシン開発も満足に出来ない状況に陥り、結果、フォード時代にあげた勝利は1993年のアクロポリスのみにとどまる。 1995年、フォードがベルギーのプライベート・チーム、RASスポールにワークス参戦委託を表明すると、RASの生え抜きであったブルーノ・ティリーに押し出される形でチームを離脱。これが実質的なWRC引退となってしまった。 その後はラリーレイドへ転向し、トラック部門のイヴェコのワークスドライバーとして2010年代前半まで参戦した。ダカールでの最高成績は1999年の5位。1998、1999年はワールドカップのトラック部門を制覇した[2]。また2003〜2004年はワークスの三菱・パジェロエボリューションを、2007年は「フィアット・パンダカール」をそれぞれドライブして四輪部門へと参戦した。 イヴェコでは排気量10L未満クラスの車両をドライブすることもあり、日野・レンジャーを駆る菅原義正の直接のライバルとなった[3]。ダカールでステージ勝利を初めて記録したのは2012年のことで、この年デ・ルーイ・イヴェコで3勝を挙げている(最終結果は総合6位)[4]。2014年はイヴェコから放出され、再びパンダカールをドライブする予定であったが、チームの経済的な理由により消滅[5]。以降はダカールにエントリーしていない。 イタリアのタイヤメーカー、ピレリの開発ドライバーも務めた。 2023年現在まで年間数戦程度だがローカルラリーへの競技者もしくはオフィシャルカーとしての参加も続けており、ランチアのヒストリックカーに加えてヒュンダイ・i20クーペWRC、アバルト・124スパイダー R-GT、トヨタ・GRヤリスなどといった現代のラリーカーもドライブしている[6]。 エピソード
脚注関連項目外部リンクInformation related to ミキ・ビアシオン |