ジュン (漫画)『ジュン』は、石ノ森章太郎による日本の漫画。『COM』(虫プロ商事)にて、1967年1月号より1971年10月号まで連載された[1]。 台詞はほとんどなく、絵とコマの流れだけで話が読み取れるような構造となっており、「漫画表現への挑戦」「実験作」とも評される[1]。第13回(1967年)小学館漫画賞を受賞[1]。 あらすじ少年ジュンは漫画家になるという夢を持っていたが、父には理解してもらえずにいた。ある日、父親は勉強をせず漫画を描くことばかりに陶酔するジュンに手をあげ、ジュンの描いた漫画を破いてしまう。喪失感を覚え、深い悲しみの中でジュンは一人雪降る外を泣きながら歩いていたが、ふと雪遊びをしていた幼い少女から声をかけられる。その少女はジュンに対し子供と思えぬ程ひどく大人びた、「悲しみは決してなくなるものではなく、悲しみの源とは自分が今存在し、生きていることである。」という哲学的な内容の話をしてジュンを諭した後、少女は雪の中を去って行くのであった。ジュンにまた近いうちに会えるという言葉を残しながら… キャラクター
作品背景石ノ森によれば、本作は『COM』の創刊に合わせて「長編ストーリーもの」の連載を依頼されたものの、時間的猶予がなく「4、5ページのギャグ漫画」として引き受けたものだった[2]。ただし、「少ないページ数のギャグ漫画」となるとあまりにもありきたりだと考え、「短編でリリックをやってみようかな」と方針を転換した[2]。 本作は「実験的作品」「文学的マンガ」と評され読者の支持を得たが、石ノ森本人は「台詞はほとんどなく、絵とコマの流れだけで構成」「作者本人の心象風景を詩的につづった」などの本作の特徴は、あくまでも時間的猶予のない状況から生まれた苦肉の策であり、「実験的精神で企んだことではまったくなくて、まさに偶然の産物だったのだ」としている[2]。 手塚治虫とのエピソードジュンは手塚治虫が刊行した雑誌で連載され、連載のメンバーに石ノ森を選んだのも手塚治虫であった。石ノ森は手塚の原稿を手伝うなど現代におけるアシスタント行為もたびたび行っていた。 手塚治虫は漫画界の第一人者と称され、ひそかに自分以外の作家の長所を研究し、取り入れることで創作意欲をかき立てていたが、その一方で自分以外の作品が賞賛されることに対して感情を露わにすることがあった[2][3]。石ノ森の自著には以下のようなエピソードが記されている。
また、小学館の編集者だった中村一彦の証言によれば、中村とともに手塚番として詰めていたある編集者が本作の一コマを気に入り「まるでモーツァルトの音楽のようだ」と賞賛したところ、これを聞いた手塚が「何がモーツァルトの音楽みたいだ、セリフのないまんがなんか、まんがではない、あんなのまんがじゃない」と激高し、即刻『COM』編集部へ電話をかけて編集長に対し本作の連載中止を命令したこともあった[3]。 手塚の嫉妬心にショックを受けた石ノ森は、『COM』編集部に連載の打ち切りを切り出したところ、手塚は石ノ森の下を訪れて「自分でもどうしてあんなことをしたのかわからない、自分で自分がイヤになる」と謝罪した[3][4]。手塚と石ノ森は和解し、連載は完結まで続いた[3]。 2018年の『24時間テレビ41「愛は地球を救う」』内で放送された単発ドラマ『ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語』で、この一件がエピソードの1つとして放送された。 ジェニーの肖像との関係石ノ森と同じトキワ荘の住居人であった赤塚不二夫によれば、両者はアイデアを共有し合う仲だったといい、本作は小説『ジェニーの肖像』をモチーフにしたらどうかという赤塚の提案を基に誕生したものだとしている[5]。
元となった『ジェニーの肖像』では、主人公は画家を目指すが、『ジュン』では石ノ森らしく漫画家を目指す設定に変えられている。赤塚は『ジェニーの肖像』を原作と語っているが、本作に原作表記は特にされていない(これは石森の漫画作品には良くみられることである)。 『魔法世界のジュン』現実世界において不幸な境遇にある幼い少年ジュンが、人間の持つ空想力によって「魔法世界」を旅する物語。1977年から1978年にかけて雑誌「Apache」(講談社)で連載されたのち、1978年から1979年にかけて雑誌「リリカ」(サンリオ)でリメイクされ再連載された。いずれも、休刊のため打ち切りとなっている。
単行本
脚注
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