スタニスラス・ジュリアン
エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien[1]、1797年 - 1873年2月14日)は、フランスの東洋学者。アベル・レミュザをついで19世紀フランスの代表的な中国学者として活躍した。 略歴ジュリアンはオルレアンに生まれた。本来の名はノエルであったが、アメリカで死んだ弟の名を引きついだ[2][1]。3歳のときに父を失なう。オルレアンの神学校で教育を受けた後、1819年か1820年にパリに出て、コレージュ・ド・フランスで古典を学んだ。1821年から同校でギリシア語の助手を務める。中国語はアベル・レミュザに学び、早くも1824年に『孟子』の一部をラテン語に翻訳している[2]。1827年にフランス学士院図書館に職を得た。 1832年にレミュザが没すると、ジュリアンはその後を継いでコレージュ・ド・フランスの中国学教授に就任。没するまでその職にあった。翌1833年には碑文文芸アカデミーの会員に選ばれた。1845年に王立図書館の漢籍の管理者をつとめ、1852年にコレージュ・ド・フランスの学長に就任した[3]。1863年にバザンがつとめていた東洋言語特別学校の中国語教授を兼任した(1871年まで)[3]。 1873年に没したときに、中国語の表現を集めたカード25万枚を残した[2]。 受賞・栄典
主な業績哲学書では『孟子』『太上感応篇』『老子道徳経』を翻訳した。ただしいずれも初訳ではない[4]。
文学では清代の白話小説『平山冷燕』『玉嬌梨』『白蛇精記』や、元曲『趙氏孤児』『灰闌記』『西廂記』を翻訳した。
1830年代後半にフランス農務省からの依頼によって、ジュリアンは養蚕に関する漢籍である『桑蚕輯要』を翻訳したが、すぐに英語・ドイツ語・イタリア語・ロシア語に重訳された[2]。ほかにも中国の伝統産業に関する著書がある。
ジュリアンはサンスクリットを学び、中国とインドの関係について研究した。ジュリアンは最初に玄奘に注目した西洋人だった[5]。
ジュリアンはいくつかの中国語文法書を書いた。とくに1869-70年に出版された『漢文指南』は長い間使われた。
スタニスラス・ジュリアン賞フランス文学院(碑文・文芸アカデミー)は、1875年以来、中国学に優れた功績をあげた人物に対してスタニスラス・ジュリアン賞(Prix Stanislas Julien)を授与している。 参考文献
外部リンク
脚注 |