老子道徳経『老子道徳経』(ろうしどうとくきょう) は、中国春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。上篇(道経)と下篇(徳経)に分かれ、あわせて81章から構成される。単に『老子』とも『道徳経』[注 1]ともいう。道教では『道徳真経』ともいう。『老子五千言』『五千言』ともいう。 成立・伝来→「老子 § 老子の履歴」、および「老子 § 『老子道徳経』から推測される老子」も参照
『老子道徳経』成立についての伝説『史記』老子韓非伝には老子道徳経について下記の伝承が記載されている。 老子は楚の苦県の人。姓は李氏、名は耳、字は伯陽、諡を聃という。[1]周の図書館の守蔵吏(司書)をつとめていた。孔子は洛陽に出向いて彼に礼の教えを受けている。あるとき周の国勢が衰えるのを見て隠遁の志を起こし牛の背に乗って西方に向かった。函谷関を過ぎるとき、関守の尹喜の求めに応じて五千言の書を書き上げた。それが現在に伝わる『道徳経』である。[2] 文献学上の老子道徳経しかし、現在の文献学では、伝説的な老子像と『道徳経』の成立過程は、少なくとも疑問視されている。[3]既に清の陳夢雷『欽定古今図書集成』では、老子に関する話はどれも俗説で嘘が多いとしている。[4]前述の、孔子が老子に教えを受けたという話の初出は『荘子』でとされる。しかし『荘子』の記述は創作が多く、これもそのうちの一つであり、事実ではないと元の羅璧は『孔子師老聃弁』で指摘している。孔子の孫の孔鮒が編んだ『孔子家語』には、このような話が全く出てこないためである。[5] 近年ではそもそも論として老子の実在性すら怪しいということになった。まず、老子なる人物が実在した証拠がない。このことも既に清代に指摘されており、清朝が『古今図書集成』を作った時に集めた民間の伝説では老子は幾世代にもわたり転生を続けた人物とされていた。このことから老子の話はまるで信用できないといわれていた。民間の伝説では三皇五帝の頃からいた人物で、時代ごとに名前を変え、越では范蠡を名乗ったと言い、斉では鴟夷子を名乗り、呉では陶朱公を名乗っていたという。[6]日本の道教研究者の麥谷邦夫は、これを「老子転生説話」といっている。[7] つまり、老子は半ば伝説上の人物で、著者が特定できないのである。さらに、その人物が一人で『道徳経』を書いたということ自体が疑わしい。これが現在の主流の説である。[8]この説では複数名が老子の作者ということになる。金谷治は老子の実在性を疑い、民間で言い伝えられたことわざや格言を集めたものではないかとしている。[9]すなわち『荘子』で言及されている伝説的な賢者の老子は『老子道徳経』の作者ではなく、『道徳経』はのちの道家学派によって執筆・編纂されたものであろうということである。金谷治は「要するに[老子の成立は]はっきりせず、現存の書物との結び付きで考えれば、[老子の成立は]戦国中期(前4世紀)よりさかのぼることはできない。」としている。[9] この老子を作った集団についての研究もあり、中国哲学者の加藤常賢は「老子は当時の社会から疎外されていた障害者集団(佝僂人)が、世間の有り様を『これは違う』と指摘して作ったものではないか」とした。[10] 一方、研究者の間では「老子非実在説が通説ではあるが、『老子道徳経』は美しい韻文で書かれて首尾が一貫しており、複数名の手になるとは考えられない」という主張も存在する。この説は小川環樹や保立道久が唱えている。[11] 『荘子』にたびたび登場している点から見て、老子の名は、当時(紀元前300年前後)すでに伝説的な賢者として知られていたと推測される。一方で『韓非子』(紀元前250年前後)には、『道徳経』からの引用がある。ただし、荘子以前に書物としての『老子道徳経』が存在したかは疑わしい。『道徳経』の文体や用語、その中にある思想は春秋時代ではありえず、戦国時代のものではないかとの指摘がある。
テキストについて『老子道徳経』には古来からの伝本によるテキストと、出土資料に基づくテキストがあり、現代の『老子』関係の書物はこれらを比較検討して作られているものが多い。古来からの伝本によるテキストも、出土資料も異本が非常に多い。 書誌学者の谷沢永一は、以下のように指摘している。
古来からの伝本によるテキストは、安冨歩によれば王弼本、河上公本、想爾本、玄宗御注本の四系統に大別されるという。 [14] 古来の伝本では『正統道蔵』の洞神部玉訣類に収める王弼本の『道德真經註』が古来から良く用いられた。これを「王注道蔵本」という。王弼の整理したテキストが後世道蔵に収録されたものである。ただこの本は錯簡(文章の入れ違い)が多いとされ、江戸時代の儒者宇佐美灊水(うさみ しんすい)が再度校定した「宇佐美本」が別に作られている。この宇佐美本を底本とする書も多い。例えば金谷治訳『老子』は「宇佐美本」と「馬王堆帛書本」を比較検討したものである。[15] 出土資料としては、郭店一号楚墓から出土した戦国中期の残簡(郭店楚簡)が最古である。これを「郭店楚簡老子」という。[16]ただ、「郭店楚簡本」は現在の老子テキストが完成される前のものと考えられ、現在のテキストとは大幅に異なる。原文の考証を行った保立道久は「老子の草稿ではないか」ではないかとしている。[17]安冨歩は「老子の抜粋であろう」としている。[18] それに次ぐものとして馬王堆漢墓から出土した2種類の帛書(『老子』甲・乙)がある。大きな特徴は道蔵本と上巻・下巻の順序が逆であることである。甲本は劉邦の「邦」を避諱しておらず、漢以前のものである。破損が激しく読めない字も多い。いっぽう乙本の方は破損が少なく、ほとんど内容は道蔵本(王弼本)と同じである。ただし章の順序、切り方、文字の異動は相当ある。[15]保立道久は「老子の決定稿はこちらであろう」としている。[11] 現代の日本の翻訳書では「王注道蔵本」・「馬王堆帛書本」がよく用いられる。[19] 漢以降の出土資料は北大漢簡や敦煌文献がある。 注釈書注釈書としては、魏の王弼の注と、漢の河上公(実際は南北朝時代の何者かの作とされる)の注が代表的である。王弼注と河上公注とは本文にも違いがある。 その他、江戸時代日本で主流だった宋の林希逸『老子鬳齋口義』(道蔵本では『道德真経口義』)、唐初の傅奕編とされる『道徳経古本篇』、唐の玄宗皇帝の『開元御注道徳経』、五斗米道の経典とされる『老子想爾注』、部分的に残存する漢の厳遵『老子指帰』などがある。名前だけ伝わるものも数百ある(例:『漢書』芸文志に載る『劉向説老子』)。近代、世界的に古典と認識されてからは更に多く作られている。 内容形式『老子道徳経』は約5千数百字(伝本によって違いがある)からなる。全体は上下2篇に分かれ、上篇(道経)は「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」、下篇(徳経)は「上徳は徳とせず、是を以て徳有り(上徳不徳、是以有徳)」で始まる。『道徳経』の書名は上下篇の最初の文句のうちからもっとも重要な字をとったもの。ただし馬王堆帛書では徳経が道経より前に来ている。 上篇37章、下篇44章、合計81章からなる。それぞれの章は比較的短い。章分けは馬王堆本のころから存在していたが、注釈者により「この部分は前後とつなげて読むべきだ」と考えたときには章をくっつけたものも存在した。例えば元の呉澄は「大器晩成」の句については前の章とつなげるべきだとしている。[15] 本書の特徴の一つに、文中で固有名詞が使われていないことが挙げられる[20]。ただし「我」が老子本人を指す固有名詞とする解釈も有る。[21] 老子思想老子の根幹の思想は「道」である。一章「道可道章」では以下のように述べている。このくだりは林希逸『道德真経口義』が「此の章一書の首に居り、一書の大旨は皆な此に於いて具われり」といっており、古来老子の思想の根幹とされた。[22]
そして道とは無為自然によって得られるといい、「人為を用いない政治をせよ」と説いている。[24]第三章の「不尚賢章」では下記の無為自然の政治について語られている。
朱子学ではこれは権謀術数に富んだ政治思想であり、「人民は無知のまま生かしておくのが最も幸せである」とする思想、ひいては愚民政策であり、蘇秦や張儀のような縦横家に近い考え方で、秦の始皇帝が悪用したとの解釈をしている。[5]また楊栄国は「墨子の尚賢思想を批判したもの」としている。[30] また、老子に於いては儒教的価値の批判ないし相対的視点の提示をこころみている。たとえば、以下にあげるように、仁義や善や智慧、孝行や慈悲、忠誠や素直さは、現実にはそれらがあまりに少ないからもてはやされるのであって、大道の存在する理想的な世界においては必要のない概念であると述べる。
老子は儒家や他の思想家について反発、反論した内容が多い。[30]このため後世、「儒家がいなければ老子は何も言う必要がなかった」[32]とか、「老子は所詮、儒家のアンチテーゼに過ぎなかったため、中国思想史では常に脇役だった」[33]、「反対のことばかりいうので弁証法的には見るものがあるとしても、当時の社会変革についていけずに没落した負け犬階級が、すべてのことから逃げようと主張した書である」[30]と言われるようになった。老子は平和思想も説いている。例えば第三十章「以道佐人主章」では、
という。[34] この文は太平洋戦争中、老子研究家の諸橋轍次が学徒出陣する出征兵の月洞譲に「わたしは貴方がたが学問を途中でやめて出征することを喜べない」と涙ながらに語り、「征途を壮にす」(物壮んなればすなわち老ゆの意)と日の丸に書いて送り出したことで有名である。[35]なお、諸橋は戦後「私は戦争に反対した」と敢えて言わなかったという。老子の道に反するからである。月洞は「先生もわたし達を励ましてくれたのだ」と思い込んで出陣し、復員の後、諸橋の老子解釈を読んでようやく真意に気づいたという。[36] 主な成語影響『道徳経』は荘子学派(『荘子』外篇・雑篇)や、道家(『淮南子』など)には影響を与え、荘子と老子の思想は「老荘思想」として統合されることになり、後に道教となった。ただ、道教の教えに近い『荘子』と、宗教的な内容が乏しい『老子』は内容にかなりの違いが有るため、果たして同一視してよいかどうかは異論が有る。古来道教と老子のつながりはかなり疑問視されており、白居易の『新楽府』では荘子末流の道教が老子を勝手に解釈して不老不死や空中飛行などの超能力を吹聴していることを嘲笑っている。
智の否定思想は韓非子などの法家の愚民政策に引用された。無為による政治思想は、「黄老思想」として漢代の張良・陳平・曹参などに実践された。老荘思想は文化面で大きな影響を中国や日本に及ぼした。俳諧の分野では荘子に想を得る表現が多用された。19世紀以来『道徳経』は、ヨーロッパ各国語に相次いで翻訳。寺田寅彦のエッセイにドイツ語で『老子』を読んでの親しみやすさについて記載があり[37]、少数だが戦前は、インテリ層の間で欧文での訳注が認知された。戦後、英語圏の文献を通じタオブームが日本に伝わり、古典中国への新たな取り組みとして広く支持された。 井筒俊彦英訳で『老子 Lao-Tzu The way and its virtue』(慶應義塾大学出版会、2001年。日本語訳は下記)がある。 脚注注釈出典
参考文献
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