タイセイヨウセミクジラ (大西洋背美鯨、Eubalaena glacialis ) は、哺乳綱 偶蹄目 [ 注釈 2] セミクジラ科 セミクジラ属 に分類されるヒゲクジラ である。
1930年代から保護対象になっているが、混獲 や船舶との衝突を中心とした数々の脅威に直面しており、一時期は500頭前後まで個体数が増加したが、2021年の段階で350頭前後にまで減少したと考えられており[ 5] [ 6] 、2030年代には生息数が回復不能な段階になる可能性も指摘されている[ 7] 。
分類
セミクジラ とミナミセミクジラ に特に近縁であり、ホッキョククジラ とも比較的に近縁である。
セミクジラとは共に北半球 に生息するが、ミナミセミクジラとの近縁性がより強い[ 8] 。
形態
本種の「カラシティ(ケロシティ)」は、他のセミクジラ属 とは異なり、頭頂部から吻先まで一体化している事例が少なくない。
体長は13-18.5メートル 、体重は最大で90-106トン に達する[ 9] 。しかし、主に人間による影響に起因して健康状態の悪化に伴い、小型化と繁殖率の低下が報告されている[ 10] 。
全体的にずんぐりとした姿をしており、胴体に対して頭部が大きく、体長の4分の1ほどにもなる。背びれや腹の溝(畝)はない。
下あごは大きく口は湾曲してアーチ型を描いている。ヒゲクジラ類の普遍的な特徴として、噴気孔は2つある。
若い頃は青みがかった色をしているが、徐々に全身が黒っぽくなる。また、あごや腹部に不定形の白斑がある。
頭部の付近には、皮膚が硬くこぶ状になった「カラシティ (英語版 )」[ 注釈 3] がほとんどの個体に見られる。ケロシティの形状と位置は全ての個体によって異なり、個体識別の最大の判断材料として利用されている。また、ケロシティを下唇に持つ場合と待たない場合がある。
セミクジラ科の特徴として、ヒゲクジラの中でも非常に長いクジラヒゲ を有する。
生態
採餌の光景。
通称「SAG [ 注釈 4] 」と呼ばれる繁殖行動 (モリア・ブラウン )。
クジラヒゲでカイアシ類 やオキアミ などの動物プランクトン を濾しとって食べる濾過摂食 者である。ヒゲが長大なことから、ナガスクジラ科 と異なり、魚類などはあまり食べないと考えられる。
単体もしくは2 - 3頭程度の小さな集団で回遊する。泳ぎは遅い。
V字型の潮吹き (ブロー)が特徴である。
海面に躍り上がるようにジャンプするブリーチング 、ヘッドスラップ、スパイホップ、テイルスラップ、ペックスラップなどの活発な海面行動(英語版 )を行なう。
妊娠期間は12 - 14か月で、冬に出産する。
セミクジラ科 は概して好奇心が強くて穏やかであり、「地球上で最も優しい生物」と称される事もある[ 12] 。ハーマン・メルヴィル は『白鯨 』において「人間によって初めて定期的に捕らえられるようになった海の最も尊敬される生き物」と表現している[ 7] 。
北太平洋 のセミクジラ と異なり、本種やミナミセミクジラ に関しては「歌 」が記録されたことはない[ 13] 。
ファンディ湾 等における観察では、本種は他のヒゲクジラ類や魚類[ 注釈 5] とは餌の競合関係にあるが観察上では問題なく共存しており[ 14] [ 15] 、ザトウクジラ やナガスクジラ やタイセイヨウカマイルカ 等と交流したり[ 16] [ 17] 、ホッキョククジラ およびイワシクジラ と餌場を共有する光景や[ 14] 、ホッキョククジラがセミクジラの繁殖行動 に参加している場面も観察されている[ 18] 。
なお、セミクジラ科の糞は他の大型鯨類と同様に海洋生態系にとって重要な資源となる ことが示唆されているが[ 19] 、セミクジラ科の糞は(餌の関係からか)臭気が際立っているとされる。また、糞から得られる生態情報の一つとしてクジラのストレスレベルが存在し、2001年のアメリカ同時多発テロ事件 の発生後には船舶の航行量の低下によってクジラのストレスホルモン値も低下した可能性がある[ 20] 。
分布
タイセイヨウカマイルカ と交流する個体。ボートまたは混獲 による傷が見て取れる。
胴体下部の皮膚が白変化した模様が見て取れる。
観察時の注意喚起と目撃情報の募集(ベルファスト )。
他のセミクジラ属 と同様に、海岸近くや浅瀬に頻繁に現れ、ケープコッド運河 、パムリコ湾 、河川の河口、港湾内など、非常に閉鎖的な水域や人間の生活圏に非常に近い場所に現れる事も少なくない[ 21] 。そのため、「都市で暮らすクジラ 」とも呼ばれており、保護上の重要な懸念材料になっている[ 7] 。本種がケープコッド運河 を通過する際は、クジラ達の安全のために運河が一時的に閉鎖される[ 22] 。
季節的な回遊行動を行うと見られ、過去の分布も含めれば、夏季はデービス海峡 、デンマーク海峡 、ノルウェー海 、バルト海 、ワッデン海 、マサチューセッツ州 近海、アイリッシュ海 [ 23] 、冬季はフロリダ州 やメキシコ湾 、ビスケー湾 、地中海 、バミューダ諸島 、アゾレス諸島 、マデイラ諸島 、カナリア諸島 、ポルトガル やスペイン の沿岸、モロッコ や西サハラ やモーリタニア などの広範囲に回遊していたとされる。
かつてはバルト海 や地中海 を含む北大西洋の全域に生息していたが、現在の通常分布は北米大陸の沿岸部や沖(セントローレンス湾 からフロリダ半島 )に限定されており、大西洋の東側(ヨーロッパ から北アフリカ )の個体群は絶滅したか、それに近い状況に陥っていると考えられ、近年の目撃はごく稀である。
北米
マサチューセッツ州 とジョージア州 とサウスカロライナ州 の州の象徴種 に選ばれている[ 24] 。
北部ではメイン州 からマサチューセッツ州 が、南部ではノースカロライナ州 からフロリダ州 の海域が特別保護海域に指定されており、カナダとアメリカ合衆国の沿岸警備隊 が中心になって、漁網への混獲や船舶との衝突を防ぐために航路や航行速度の制限を行っている[ 25] 。しかし、地球温暖化 による影響からか、主要な餌場であったファンディ湾 やケープコッド湾 から減少し、より北方のセントローレンス湾 に突然現れる様になったため[ 26] 、保護のための法整備がされていないこの海域での死亡事故が相次ぎ、種の回復が大幅に阻害されたとされる[ 27] 。
ファンディ湾 やケープコッド はタイセイヨウセミクジラを見るチャンスのあるホエールウォッチング のスポットとして知られている。個体数が少ないために、ツアーの最中に遭遇できる確率は高くはない。しかし、レース・ポイント(英語版 )では陸上から観察できる可能性が比較的高いとされる[ 28] 。また、冬季から春季の繁殖と子育ての季節には、ノースカロライナ州 からフロリダ州 にかけて目撃情報が大手メディアや自治体や各機関によって共有され、目撃記録の募集をしており、セミクジラへの接近を禁ずるルールなどを流布している。
また、目撃情報を共有する専用のオンラインプラットフォームやアプリケーションソフトウェア も存在し、混獲や船舶の衝突などの事故を防止する措置が図られている[ 28] [ 29] 。
さらに、繁殖期の前後には、フロリダ州 を中心とした繁殖海域の沿岸各地で「Right Whale Festival 」と呼ばれるフェスティバル が開催され、本種の知名度を高めるための啓蒙を行っている[ 30] 。
ヨーロッパ・アフリカ側
1877年 にイタリア のターラント (地中海 )に座礁したとされる未成熟個体を描いた絵画(パオロ・パンセリ )。
1900年 以前にディーラフィヨルズル で捕獲された個体[ 注釈 6] 。
上記の通り、現在の北大西洋 の東側(ヨーロッパ ・北アフリカ )に棲息していた個体群は、絶滅したか機能的絶滅 (英語版 )に陥っていると考えられており、目撃情報も非常に少ない。
たとえば、後述の通り本種との歴史的・文化的な繋がりが強いイベリア半島 では、未確定の目撃情報を除くと1990年代以来[ 注釈 7] 確実な目撃記録が存在しない[ 31] [ 32] 。また、100年 以上も確実な記録が途絶えている国々も少なくなく、たとえばフランス では2019年に[ 33] 、アイルランド では2024年に確認されたが[ 34] 、これらの記録までは各々の国内では本種は絶滅したとみなされてきた[ 35] [ 36] 。
また、近代のごく僅かなアイスランド やヨーロッパにおける目撃例は個体識別が可能な事例はほとんど全部が北米側の個体群に由来している[ 33] 。
地中海 やジブラルタル海峡 では17世紀 以降の記録は非常に限られており、1620年のコルシカ島 における詳細不明の捕獲、1808年のカディス における座礁、1877年のターラント における座礁、1888年のアルジェリア ・ティパザ県 のブー・イスマイル(英語版 )での2頭の内の1頭の捕獲、1921年に捕鯨業者の工場にて本種のクジラヒゲ が見つかったこと、捕鯨業者による1950年代の不確実な目視記録、1991年にサンタンティーオコ 沖で未確認の目撃情報がイタリア海軍 の関係者によって報告された程度であったが[ 37] [ 38] 、2024年4月にスペイン ・アルメリア県 のモハカール(英語版 )の海岸から1頭が撮影され、本種の地中海への帰還が確認された[ 39] 。付近では1995年2月にサン・ヴィセンテ岬 で親子の目撃情報も報告されている[ 37] 。
ヨーロッパ・北アフリカ側において、過去に繁殖や子育てが行われていたことが捕獲記録から確実に判明している水域は、ビスケー湾 と西サハラ のシントラ湾(英語版 )のみであるが、シントラ湾の周辺一帯を含むサハラ砂漠 の沿岸も子育てに適していると判明しており、また、地中海 もかつては越冬と子育ての場であった可能性が指摘されている[ 注釈 8] 。
人間との関係
オンダロア の紋章
最後のバスク捕鯨(1901年 , オリオ )[ 注釈 9]
漁網からの救出場面(ジャクソンビル 沖)
頭部や背中や尾に船舶との衝突や定置網による傷がみえる。
GPS による移動記録の追跡例(GIF )[ 注釈 10] 。
捕鯨
セミクジラ属 に共通するが、古来から捕鯨の主要な対象とみなされ、学名や英語名などもそれに由来している[ 42] [ 43] 。後述の通り、バスク人 による捕鯨がとくに知られたため、スペイン語名は「バスク の鯨」を意味する「Balea vasca 」である。
本種を対象とした捕鯨 がいつ頃からどの程度の規模で行われていたのかは不明であり、ローマ帝国 が本種とコククジラ (大西洋では絶滅)を地中海 とジブラルタル海峡 で捕獲の対象としていたために地中海からこの2種が消え去ったという説[ 40] や、中世 にオランダ とフランデレン地域 で商業捕鯨が行われていたという説もある[ 44] 。その後、さらに多くの地域から本種とコククジラの捕獲の形跡が発見され、この2種がとくに重点的に中世ヨーロッパで捕獲されていたことが判明している[ 45] 。
記録として確実な大規模捕鯨は、9世紀 ごろからバスク人 によって始まった。ビスケー湾 に現れたセミクジラを高台から見張り、小舟で漕ぎ出して銛 で突く沿岸捕鯨である。当時のヨーロッパでは漁獲したセミクジラからの鯨油に対する需要があった。また鯨肉は食用にもなり、特に舌は珍味とされた。鯨のひげはコルセット などに加工された。今日でも「鯨」を意味するフランス語の単語である「baleine 」は、「ワイヤー」や「(傘などの)骨」という意味に使われている。次第に捕獲海域は大西洋へ拡大され、1560年 代にはラブラドル 沖海域を開発するなどバスク人の捕鯨は最盛期を迎えた。
しかし、後年による鯨骨の測定の結果、ラブラドルやベルアイル海峡 などでバスク人 によって捕獲されていた種類のほとんどがホッキョククジラ だと判明し、16世紀から17世紀まではホッキョククジラがセントローレンス湾 などにも回遊していた事が示唆された[ 46] 。
その後、オランダやイギリスなどが参入してバスク人の独占状態は崩れ、さらにアメリカなども本種の捕鯨を開始した。捕鯨技術が進歩し、かつ組織的に行なわれたため、その漁獲はより大規模となった。この乱獲のため、19世紀までに個体数が激減した。1937年 に関係国の協定で世界的に捕鯨は禁止となり、現在は保護の対象となっている。
保護
セミクジラ属 はもっとも最初に保護が提唱されており、1935年[ 47] には全てのセミクジラ属の捕獲の禁止が決定されたが、日本 をふくむいくつかの捕鯨国が反対し、日本やソビエト連邦 などによる本属や他の絶滅危惧種 [ 注釈 11] を対象とした密猟も発生してきた[ 48] [ 49] [ 50] 。
近年はタイセイヨウセミクジラを対象とした捕鯨は行われておらず、1975年のワシントン条約発効時からセミクジラ属 [ 注釈 12] は属単位ごとワシントン条約 附属書Iに掲載されている[ 2] 。漁業による混獲や船舶との衝突により生息数が減少している[ 3] だけでなく、地球温暖化 や環境汚染などによる棲息環境の悪化などによる健康状態と繁殖率の悪化などもあり[ 47] 、ワシントン条約附属書Iにて近絶滅種 に指定されている。年平均増加率はおよそ2%と低く、現在の群れの規模も350頭前後である。また、生息数の激減により起こりうる近親交配、それによる遺伝子多様性の縮小化などによる諸問題も懸念され、1990年代には、200年内に絶滅すると予測されていた。[1] [リンク切れ ] また、2017年には20年以内の絶滅が予測されていた[ 51] [ 52] 。また、生息環境の悪化もふくめて人間活動による影響下に晒されてきた結果、上記の通り生存個体の小型化と繁殖率の低下も確認されている[ 10] 。
セミクジラ科 は「アンブレラ種 」であり[ 53] 、セミクジラ達の保護を促進する事によって他の鯨類や他の面の環境保護も恩恵を受けるとされる[ 7] 。
識別された個体にはケロシティの形状から連想される事物などに因んだ様々なコードネームや名前が付けられ、「ガンダルフ 」や「ジェダイ 」や「ビーカー 」などの著名なキャラクターに由来する名前が付けられて報道される場合もある[ 54] [ 55] 。
上記の通り、おそらく地球温暖化 などによる気候や生態系の変動に伴い、保護のための法整備がされてこなかったセントローレンス湾 への出現が急増し、2017 - 2019年に人間による原因で少なくとも30頭が死亡した。26頭は混獲、2頭は船舶との衝突が原因とされる[ 3] 。2013年には500頭近い頭数の生息が確認されたが[ 5] 、2018年における生息数は409頭と推定され、成獣は250頭未満と推定されている[ 3] 。2021年には、推定で生存数が350頭に低下したとされている[ 6] 。
トランプ政権 下にて、ケープコッド 沖などでの漁業権の拡大や海洋掘削 (英語版 ) や音響試験が認可されたため、セミクジラへの悪影響を発生させかねないとして大きな反発を招いた[ 56] [ 57] [ 58] [ 59] 。
2022年に、モントレーベイ水族館(英語版 )がロブスター漁によるセミクジラへの悪影響を指摘し、この勧告によって海洋管理協議会 もロブスターを「持続可能な海産物」のリストから外し、ホールフーズ・マーケット などの大手の食料品チェーンがロブスターの取り扱いを停止した。しかし、メイン州 の州知事 や漁業関係者や政治家などが大いに反発し、モントレーベイ水族館へのボイコット を展開したり、漁業組合がモントレーベイ水族館を提訴するなどの騒動に発展している[ 60] [ 61] [ 62] [ 63] 。
また、米国政府が新たに推進しているバイオ燃料 や洋上風力発電 の計画と本種の保護に軋轢がすでに生じており[ 64] [ 65] 、後者に関してはAI技術と音響モニタリングを用いた保護との両立が計画されている[ 66] 。
バイデン政権 は2023年 09月に本種の保護に8,200万ドル(121億4,800万円以上)を[ 67] 、2024年 01月には約1,000万ドル(約14億円)[ 68] を投入することを決定した。
関連画像
関連項目
脚注
注釈
出典
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外部リンク
Eubalaena glacialis Balaena glacialis