チャック・フィンリー
チャールズ・エドワード・フィンリー(Charles Edward Finley, 1962年11月26日 - )は、アメリカ合衆国ルイジアナ州モンロー出身の元プロ野球選手(投手)。 経歴エンゼルス時代1984年のMLBドラフトでカリフォルニア・エンゼルスから15巡目に指名を受けるが契約せず。 1985年1月の2次ドラフトでエンゼルスから1巡目(全体4位)に指名を受け入団。 1986年はA級で10試合に登板し、12イニングを無失点に抑える好投を見せ、一気にメジャー昇格を果たした。5月29日のデトロイト・タイガース戦でデビュー。ほとんどが敗戦処理としての起用だったが、3勝1敗、防御率3.30の成績を残す。チームは地区優勝し、ポストシーズンのロースター入りを果たす。ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでも3試合に登板し無失点に抑えたが、チームは3勝4敗で敗退しリーグ優勝を逃した。 1987年は2勝7敗、防御率4.67に留まる。 球団はオフに大ベテランドン・サットンを解雇し、ジェリー・ロイスとも再契約しなかったため、1988年は先発に転向するが9勝15敗、防御率4.17に終わる。 1989年5月26日のレッドソックス戦で、被安打1でメジャー初完封を記録。6月24日のボルチモア・オリオールズ戦で15奪三振完投勝利を挙げるなど前半戦で10勝を記録し、オールスターゲームに初めて選出される。最終的に16勝9敗、防御率2.57を記録した。 1990年はフリーエージェントで加入したマーク・ラングストン、前年にデビューしたジム・アボットと左腕トリオを組み、前半戦で11勝を記録し、2年連続のオールスターゲームに選出される。18勝9敗、防御率2.40を記録し、サイ・ヤング賞の投票で7位に入る。オフの日米野球に参加し、最終第8戦でランディ・ジョンソンとの継投でノーヒットノーランを達成した[1]。 1991年は前年に続き18勝を記録するが、防御率は3.80と大幅に悪化した。 1992年は不調で7勝12敗に留まるが、1993年に16勝14敗、防御率3.15、リーグ最多の13完投を記録し復活。 1994年は1994年から1995年のMLBストライキでシーズンが打ち切られたが、リーグ最多の183.1イニングを記録。 1995年は開幕から4連敗を喫するが、5月23日のニューヨーク・ヤンキース戦で15奪三振完封勝利。5年ぶりにオールスターゲームに選出され、15勝を挙げる。チームは2位に最大11ゲーム差を付け、地区優勝をほぼ手中に収めていたが、終盤に2度の9連敗を喫してシアトル・マリナーズと同率で並ばれ、ワンゲーム・プレーオフで敗れて地区優勝を逃した。オフにフリーエージェントとなるが再契約。 1996年は15勝、キャリアハイの215奪三振を記録。1997年は故障で25試合の登板に留まる。同年ホワイトスネイクのプロモーション・ビデオ、"Here I Go Again" などで有名な女優のタウニー・キテーンと結婚[2]。 1998年、1999年は共に2桁勝利・200イニング・200奪三振を記録した。オフに再びフリーエージェントとなった。 インディアンス時代1999年12月16日にクリーブランド・インディアンスと契約。 2000年は4年ぶりにオールスターゲームに選出され、16勝11敗、防御率4.17の成績を残したが、チームは地区6連覇を逃し、ワイルドカード争いでもマリナーズに1ゲーム差で敗れた。 2001年は首と左肩の筋痙攣で故障者リスト入りし[3]、22試合の登板に留まったが、チームは地区優勝を果たす。15年ぶりのポストシーズンとなったマリナーズとのディビジョンシリーズでは第2戦と第5戦に先発したが2敗、防御率7.27と振るわず、チームも2勝3敗で敗退した。 DV被害事件2002年は開幕3連戦が敵地での古巣エンゼルス戦であったため、ニューポートビーチにある自宅に滞在していた。試合のなかった4月1日の夜に妻と夕食に出掛けたが、帰りの車中で口論となり、運転中にもかかわらず興奮した妻に耳をつね上げられ、ハイヒールで腕や足などを所構わず蹴られた。何とか愛車レンジローバーをコントロールし自宅に辿り着いたが、匿名の通報により警察が到着、彼の傷を見てタウニーを逮捕し48時間拘束した[2][4][5](逮捕時の写真)。 妻へのDVで逮捕されたメジャーリーガーにはペドロ・アスタシオやフリオ・ルーゴなどがいるが、逆のケースついては表面化することが少ないこともあり、世間の注目を集めた[6]。 彼女は前年11月にも車へのいたずらで逮捕されており、4月18日には裁判が開かれる予定であった[7]。4月3日の登板予定日に彼は球場に現れず、GMのマーク・シャパイロに「球場に行くって気分じゃないし、今日は投げられないと思う」と電話をかけ、急遽ライアン・ドリースが先発した[8]。突然先発が早まったドリースは勝利投手となった[9]。 1999年のスポーツイラストレイテッド誌で夫婦揃って水着姿を披露するなど[10]、仲睦まじいと思われていた夫婦だったが、4月4日に裁判所に離婚の申し立てを行い終焉を迎えることとなった。その後も子供の養育権や金銭面、また彼がドラッグやステロイド剤を使用していたと暴露したりと、争いが続いた[11](ステロイド剤の使用に関しては特定はされていない[12])。離婚直後の4月16日、敵地USセルラー・フィールドでのシカゴ・ホワイトソックス戦で先発したが、球場の音楽ディレクター、ジョー・スティーブンが、ホワイトスネイクの"Here I Go Again"を、タウニーの出演部分に矢印をつけてスクリーンに流すという嫌がらせ行為をした。これに動揺したのか2回途中9失点で降板して敗戦投手となり、チームの連勝は10でストップ。ホワイトソックスは後日スティーブンを解雇し、フィンリーに謝罪した[13]。騒動が影響したのか4勝11敗、防御率4.44だった。 カージナルス時代2002年7月19日にココ・クリスプ他1選手との交換トレードでセントルイス・カージナルスへ移籍。 移籍後はシーズン最後の登板となったミルウォーキー・ブルワーズ戦で通算200勝を達成するなど7勝4敗、防御率3.80を記録し、チームの地区優勝に貢献した。アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズでは第2戦に先発し、7回途中を無失点に抑え勝利に貢献する。サンフランシスコ・ジャイアンツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、バリー・ボンズに3点本塁打を浴びるなど5回4失点ながら勝利投手となったが、チームは1勝4敗で敗退しリーグ優勝はならなかった。同年限りで現役を引退。 エンゼルス時代の背番号「31」は、正式な永久欠番ではないが、準永久欠番扱いで現在でも着けている選手はいない。 選手としての特徴落差の大きいカーブとスライダーの中間のような「スラーブ」とスプリットフィンガード・ファストボールを決め球にしていたため、振り逃げを許すケースがしばしばあり、「1イニング4奪三振」を史上最多の3回記録している。近年落ちる球を使う投手が多くなり増加傾向にあるとはいえ、長いMLBの歴史でも2011年終了時点で60回(うち1990年以後が39回)しかなく、現時点で他に通算2回以上記録している投手はA.J.バーネット(現役、2011年までに2回)しかいない。 シーズン2桁勝利は通算12回、15勝以上も通算7回記録し、ランディ・ジョンソンやトム・グラビンらと共に1990年代を代表する左腕投手の1人だった。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録背番号
脚注
関連項目外部リンク
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