ツキガタプロダクション
ツキガタプロダクション(登記上正式表記ツキガタプロタクシヨン、1928年 設立 - 1932年 解散)は、かつて京都、のちに奈良に存在した映画会社である。当時の若手人気俳優「月形陽候」こと月形龍之介が設立した。8本のサイレント映画と2本のトーキーを製作した[1]。 略歴・概要牧野省三のマキノ・プロダクションの専属俳優だった月形龍之介は、1928年(昭和3年)2月、同社との配給提携を条件に設立したのが、この「ツキガタプロダクション」である。これを機に「月形陽候」と改名した。設立第1作は、井上金太郎の「秋篠珊次郎」名義によるオリジナル脚本での監督作『酒毒の剣法』、同作は同年6月15日にマキノ・プロダクションの配給で公開された[1]。井上の監督作3本、悪麗之助の監督作を製作し、翌1929年(昭和4年)、井上の監督作『剣士沖田総司』を製作して、一度同社を解散し、同年8月には月形一党は松竹下加茂撮影所に入社、名も「月形龍之介」に戻した[1][2]。 1931年(昭和6年)5月、トーキー映画の製作を目指してふたたび独立、松竹下加茂撮影所を退社して、奈良の生駒山山麓、奈良県生駒郡南生駒村大字一分(現在の同県生駒市壱分町532-1)に撮影所を建設し、「月形プロダクション」とした[3]。新社第1作は直木三十五の原作を得て『舶来文明街』を製作した。映音のシステム不備でパート・トーキーとなったが、キネマ旬報ベストテンで第5位の高評価を得た。第2作は映画『スカラムーシュ』(監督レックス・イングラム、1923年)の原作者ラファエル・サバチニの小説を原作に、『暁の市街戦』を製作、1932年(昭和7年)4月7日に公開されたが、今回は写真化学研究所(のちのP.C.L.映画製作所、現在の東宝スタジオ)のシステムでオール・トーキーが可能になった[2]。いずれも洋画を配給していた「欧米映画社」が配給した[1]。 第二次月形プロダクションにおいて、俳優高田篤は松竹下加茂撮影所から同社に移籍し、設立に参加したが解散後は片岡千恵蔵プロダクションに移籍した[4][5]。高松錦之助は第一次ツキガタプロに「筆頭脇役」として設立に参加、解散後は松竹下加茂撮影所に同行、第二次にもおなじく参加した[6][7]。浅草オペラ出身の天野刃一も高松同様に第一次および松竹下加茂、第二次に参加した[8][9]。岩田専太郎の実妹で女優の湊明子も同様の月形一党であった[10]。 しかし、この2作で月形は15万円もの負債を背負い、再度プロダクションを解散、月形は東活映画社に入社することになった[1][2]。残された生駒の撮影所は、同年2月に設立された富国映画社がひきつづき稼動させた[3][11]。同撮影所は同年7月の富国映画社解散によりふたたび閉鎖され、跡地には1963年(昭和38年)に奈良県立生駒高等学校が開校した。 2012年(平成24年)12月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、同社の製作物を1作も所蔵していない[12][13]。 フィルモグラフィツキガタプロダクションいずれも配給はマキノ・プロダクション、サイレント映画である。
月形プロダクション
関連事項
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |