ディック・ディサ
リチャード・オーガスティン・ディサ(Richard Augustine Desa, 1941年12月3日 - 2012年11月30日[1])は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)出身のプロ野球選手(投手)。 来歴・人物ヒロ高校、ノンプロの地元球団・ハワイ朝日(チームメイトにジョン・サディナがいた)を経て、1960年12月14日に大毎オリオンズに入団[2]。ハワイ朝日で高校1年目ながら2度のノーヒットノーランを含む14勝をマークし、メジャーリーグ8球団,日本のプロ野球3球団(大毎、東映、南海。ディサを紹介したのは、熊谷組を中心とする社会人野球の日本代表チームだった。)が争奪戦を繰り広げた末の入団だった。契約金の面もさることながら(メジャーリーグ側より約3倍の額を日本の球団は提示)、東京の球団でプレーしたかったこと、同じハワイ出身の田中義雄(カイザー田中)が大毎のコーチをやっていたことが入団の決め手になった[2]。 翌1961年4月23日の対東映戦(駒澤野球場)でプロ初先発。5月14日の対南海戦(後楽園球場)でプロ初勝利を完投して挙げた[2]。鳴り物入りで入団しただけあって剛速球も投げ、球の切れもあった。加えて重心の高い上体を生かした投球フォームから、打者を圧倒するような球威があった。しかし、剛速球投手に付き物の制球難があり、与四球が多く不安定だった。それに加えて練習嫌いで、遅刻や無断欠勤もしょっちゅうあった。1963年のシーズン前に飲酒運転による交通事故を起こし、右肘を痛めたことで選手寿命を縮めた。素質がありながら遊び好きの性格が嫌われ、1964年シーズン途中に日本球界において外国人初のウェーバー公示によって、近鉄バファローズに移籍した。しかし、近鉄では1勝も挙げることができないまま、1965年シーズン終了後、現役引退した。投手登録だったが、外野手として2試合出場した経験がある。 引退後は、ハワイに帰り、保険会社の社員としてサラリーマン生活をしていたが、まもなく辞職。1968年に再度日本を訪れ、アメリカ空軍立川基地にあった「レクレーションセンター」の職員となり、基地内の野球チーム(立川AIO)の監督になった。その後、貿易会社に勤務。長く日本との関係を続けた[2]。 2012年11月30日、71歳で死去。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
脚注関連項目外部リンク
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