トニー・パーカー
トニー・パーカー(Tony Parker)ことウィリアム・アンソニー・パーカー・ジュニア(William Anthony Parker Jr., 1982年5月17日 - )は、フランスの元プロバスケットボール選手。NBAのサンアントニオ・スパーズなどで活躍した。ポジションはポイントガード。現在は、LNBのアスヴェル・バスケットでオーナーを務めている。父はアメリカ人の元バスケット選手で母はオランダ人の元モデル。ベルギーのブルッヘ生まれでフランスで育ち、フランス国籍を持つ。 略歴フランス国内ジュニアジュニアの国内選手権では平均30得点7アシスト、幾度も20得点を達成するなど華々しい活躍で準優勝を果たした。15歳の頃にはパリ国立体育・スポーツ研究センター(INSEP[1])に入り、ここで後にNBAでプレイするボリス・ディアウやロニー・トゥリアフらと出会った。INSEP(チームは第3部)での2年目となった98-99シーズン、パーカーは16歳ながら平均22.1得点でリーグの得点王になった。この活躍でプロバスケットボールリーグLNBのパリ・バスケット・レーシングと契約、17歳でプロデビューを果たし、プロ2年目にはチームのエース格に成長し、14.7得点5.6アシストの成績を残した。また2000年のジュニア・ヨーロッパ選手権では優勝を果たした。 NBAサンアントニオ・スパーズ19歳になったパーカーはNBAドラフトにエントリーする。しかしサンアントニオ・スパーズでの最初のワークアウトは大失敗に終わり、グレッグ・ポポヴィッチHCからは大変に低い評価を受けた。しかし2度目のワークアウトで何とか眼鏡に適うようになり、2001年のNBAドラフトでスパーズから全体の28位指名を受けて入団した。スパーズの首脳陣はその時点でパーカーが他球団に指名されずに残っていることに驚いていた。もっともポポヴィッチはパーカーの指名に反対していたが、R・C・ビュフォードGMがポポヴィッチの反対意見を振り切り強行指名した。パーカーは「R・Cがいなかったら、僕がNBAでプレーすることはなかっただろう」と振り返っている。 2001-02シーズン にNBAデビューを果たしてからも暫くの間はポポヴィッチHCの叱咤を受ける日々が続いたが、抜群のスピードとクイックネスは即戦力として通用した。開幕スターティングPGのポジションにはリーグ5年目だったアントニオ・ダニエルズがいたが、開幕5試合目を終えたところでポポヴィッチHCはスターティングPGをパーカーに変更。ルーキーながら、77試合中72試合にスターターで出場し、9.2得点、4.3アシストの成績を残し、オールルーキーファーストチームに選出された。 2002-03シーズン は早くもチームの主力として全82試合出場を果たし、平均15.5得点はチーム2番目の成績だった。大黒柱のティム・ダンカンとパーカーに牽引されたチームはプレイオフを勝ち進み、4シーズンぶりにファイナルに進出。当時のトップPGジェイソン・キッド率いるニュージャージー・ネッツを4勝2敗で破り、NBAチャンピオンに輝いた。シリーズ中平均14得点を記録したパーカーは2年目にして早くも1つ目のチャンピオンリングを手に入れることになった。 2003-04シーズン 長らくスパーズを支えてきたデビッド・ロビンソンがシーズン前に引退し、スパーズはダンカンにパーカー、そしてアルゼンチン出身のマヌ・ジノビリらを中心としたチームに移行した。優勝を果たしながらもポポヴィッチらチームの首脳陣はパーカーのプレイ振りには満足しておらず、試合の終盤には、スピーディ・クラクストンが起用される場面が多かった。このオフにはジェイソン・キッドの獲得に動いたが、実現には至らず。パーカーはチャンピオンチームの先発の座を死守した。 この年のプレーオフはカンファレンスセミファイナルでロサンゼルス・レイカーズに破れ、連覇はならなかった。 2004-05シーズン は2位でプレーオフ進出。そしてファイナルまで勝ち進む。前シーズンチャンピオンチームのデトロイト・ピストンズと対戦し、パーカーは前シーズンファイナルMVPのチャンシー・ビラップスとマッチアップ。ピストンズの堅いディフェンスにスパーズは苦しめられたが、ジノビリがチームを牽引する活躍をし、またパーカーも平均13.9得点でチームに貢献、ゲーム7までもつれたシリーズをスパーズが制し、パーカーは2つ目のチャンピオンリングを手にした。 2005-06シーズン パーカーは苦手だったロングレンジからのシュートを封印し、得意のペネトレイトからの得点により磨きをかけたことにより、フィールドゴール成功率が急上昇し、PGとしては異例の54.8%を記録。故障を抱え不調だったダンカンに代わりチームのリーディングスコアラーとして活躍し、平均18.9得点の成績を残し、初めてオールスターゲームに選出された。スパーズはチーム記録となる63勝19敗の成績を残したが、プレイオフではカンファレンスセミファイナルで宿敵ダラス・マーベリックスに敗れた。 2006-07シーズン にはダンカンが復調し、スパーズは順調に勝ち続け、プレイオフでも対戦相手を次々と退けてファイナルに進出。レブロン・ジェームズ率いるクリーブランド・キャバリアーズと対戦した。このシリーズでパーカーは独擅場とも言える働き振りを見せ、平均24.5得点5リバウンド3.3アシスト、フィールドゴール成功率は57%を記録し、キャバリアーズを4戦全勝のスイープで打ち破った。パーカーはファイナル制覇3回目にして初のファイナルMVPを獲得、7月に控えた婚約者との挙式に華を添えた。 24歳になる以前に出場したプレイオフの試合数がNBA史上最多という記録を持つ。 2007-08シーズン スタッツは昨年とほぼ変わらないが足の怪我により13試合に欠場。連覇が目標だったがカンファレンスファイナルでロサンゼルス・レイカーズに1勝しかできずに敗れる。 2008-09シーズン チームは73年以来の開幕3連敗をしてしまう。しかし4戦目のミネソタ・ティンバーウルブズ戦でパーカーはキャリアハイの55得点10アシストの大活躍で連敗を止めた。NBA史上50得点、10アシストを成し遂げたのは彼で4人目であった。 2009-10シーズン 怪我のため出場試合数は56に止まり、平均得点も前年より大きく下げた。パーカーの怪我により大幅に出場時間を増やしたジョージ・ヒルが期待を上回る活躍を見せ、オフにはパーカーをトレードで放出する案も浮上したが、結局、契約を延長した。 2010-11シーズン 調子を戻し、フィールドゴール%も50%を超えたが、プレイオフでは、パーカーは好調を維持したが、チーム全体が勝負強さを欠き、1回戦で第8シードのメンフィス・グリズリーズにアップセットされるという事態を招いた。 2011-12シーズン 2009年以来のNBAオールスターゲームのメンバーに選出。チームもシカゴ・ブルズと並ぶ50勝16敗のリーグ最高勝率でシーズン終了。プレーオフもユタ・ジャズ、ロサンゼルス・クリッパーズを4戦全勝で下し、カンファレンスファイナルは新興勢力のオクラホマシティ・サンダーとなった。まずはスパーズが2勝をあげる。しかしここから、ケビン・デュラント、ラッセル・ウェストブルック、ジェームス・ハーデンなど、若さ溢れるタレント集団が、驚異的な巻き返しを見せ、その後はまさかの4連敗を喫し、2007年以来のNBAファイナル進出はならず、パーカーにとっても失意のシーズンとなった。 2012-13シーズン 6年振りにウェスタンカンファレンスを制し、ファイナルはレブロン・ジェームズ、ドウェイン・ウェイド、クリス・ボッシュのビッグスリー擁するマイアミ・ヒートとの対戦となった。パーカーは第1戦で体勢を崩しながらも決勝シュートを決め、ヒートを3勝2敗まで追い詰めたが、第6戦の勝利間近でのレイ・アレンの同点3ポイントシュートから形勢を逆転され、3勝4敗で屈した。 2013-14シーズン リーグ最高勝率で勝ち上がり、プレーオフはダラス・マーベリックスに苦しめられたものの順調に勝ち上がり、カンファレンスファイナルは2シーズン前にファイナル進出を阻まれたオクラホマシティ・サンダーとの対決となった。スパーズは2連勝したもののその後2連敗を喫し、2シーズン前の悪夢が蘇るところだったが、ここでパーカーらが奮起し、2連勝しウェスタンカンファレンスを制した。そしてマイアミ・ヒートとの再戦となったNBAファイナルは、終始ヒートを圧倒し、7年振りにNBA優勝。パーカー自身も通算4個目のNBAチャンピオンリングを獲得した。 2014-15シーズン 疲労の蓄積による欠場が増え、パティ・ミルズやコーリー・ジョセフなどに出場機会を譲ることが多くなったものの、ティム・ダンカンらと共にチームを牽引した。 2015年3月31日のマイアミ・ヒート戦に出場し、NBA史上最速で1,000試合出場を果たした。NBAで1,000試合出場を達成した114人目で、スパーズのみでの達成ではティム・ダンカンに続く2人目の選手[2]であり、この時点での勝利数は718で、勝率でも歴代トップクラスに位置する。 チームは終盤戦の11連勝などで追い込み、55勝27敗の成績で、NBA初の16年連続50勝以上という偉業を達成。しかしウェスタンカンファレンス6位で終わり、上位シード権を失ってしまった。そしてロサンゼルス・クリッパーズとの対戦となったプレーオフ1stラウンドは、パーカー自身左足アキレス腱の負傷を抱えながらも奮闘したが、チームは3勝4敗で屈した。同シーズンについてパーカーは、「非常にタフでクレイジーなシーズンだったよ」と振り返っている。 2015-16シーズン スパーズはラマーカス・オルドリッジを獲得し、カワイ・レナードの成長も相まってフランチャイズ記録となる67勝を記録し、パーカーは平均11.9得点を記録した。プレーオフに進み、メンフィス・グリズリーズをスィープで下したが、カンファレンス準決勝でオクラホマシティ・サンダーに2勝4敗で敗れた。 2016-17シーズン チームの大黒柱であったティム・ダンカンが引退し、パウ・ガソルがその代わりを務めるべくシカゴ・ブルズから移籍し、61勝21敗でレギュラーシーズンを締め、フランチャイズ初となる2年連続の60勝以上を達成した。パーカーは63試合に出場し平均10.1得点を記録した。プレーオフは第2シードで前シーズンと同じメンフィス・グリズリーズと対戦し、4勝2敗でヒューストン・ロケッツとのカンファレンス準決勝に臨んだ。これまで好調を維持してきたパーカーであったが、第二戦の4クォーターに、ペイント内へのドライブ時に左の大腿四頭筋の腱を断裂し、以降のゲームに出場できないことが決まった[3]。また実戦復帰は2018年1月頃になるとも報じられた[4]。 2017-18シーズン 前シーズンのプレーオフでの負傷で、復帰が2018年明けになると報じられたが、2017年11月に年中に復帰できるのではないかと報じられた[5]。 2017年11月27日のダラス・マーベリックス戦で、復帰出場を果たし、このシーズンは55試合に出場し、シーズン途中の1月21日、グレッグ・ポポヴィッチヘッドコーチの決断で、長年ポイントガードのスタータを務めてきたパーカーは控えにまわり、ディジョンテ・マリーをスターターに起用することが発表された[6]。 2018年4月22日のプレーオフ1stラウンド、ホーム2戦目となるゲーム4で、フィジカルなディフェンスと3ポイント攻勢で103-90で勝利し、[7]。この勝利で、パーカーとマヌ・ジノビリは、コンビとしてプレーオフ勝利数を132として、NBA最多勝利デュオとなった。2位はティム・ダンカンとパーカーの131勝、3位はティム・ダンカンとジノビリの126勝、4位はコービー・ブライアントとデレク・フィッシャーの123勝、5位はマイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペンの117勝。 シャーロット・ホーネッツ2018-19シーズン 2018年7月6日、シャーロット・ホーネッツと、2年1,000万ドルで契約することが報じられた[8][9]。 2019年6月10日、現役引退を発表し、18年に渡るNBAキャリアを終えた。[10]。 引退後の現地2019年8月16日、スパーズはパーカーの背番号9を永久欠番とすることを発表した。セレモニーは現地11月11日のメンフィス・グリズリーズ戦で行われた[11]。 スパーズ・ビッグスリー→詳細は「サンアントニオ・スパーズ § スパーズ・ビッグスリー」、および「ビッグスリー」を参照
ティム・ダンカン、マヌ・ジノビリとともに、スパーズのビッグスリーと呼ばれ、トリオ通算レギュラーシーズン試合数、通算勝利数、通算プレーオフ試合数、通算勝利数の全てでNBA歴代1位である。 デプスプレイスタイル強気なゲームメイクと相手守備を切り裂くスピードを持ち味とするリーグ屈指のポイントガード。身長は188cmでNBA選手としては小柄だが、味方のスクリーンを使い、スピンムーブなどのドリブルテクニックを駆使したドライブから、ペイントエリアで得点を量産する。フィールドゴール成功率もキャリア平均で50%に近く[12]、ガードの選手としてはきわめて高い数字を残している[13]。ティアドロップショットと呼ばれる中距離から放つアーチの高いレイアップシュートはパーカーの大きな武器のひとつである(アレン・アイバーソンなど小柄な選手が得意としている)。ミドルレンジからのジャンプシュートを得意とし、3ポイントシュートは苦手としていたがキャリアの中盤から徐々に改善した[14]。 個人成績
NBAレギュラーシーズン
NBAプレーオフ
受賞歴
フランス代表2000年のジュニア・ヨーロッパ選手権では優勝を果たした。以来フランスナショナルチームとして、2005年ヨーロッパ選手権で銅メダル、2011年ヨーロッパ選手権で銀メダル、2013年ヨーロッパ選手権では、ボリス・ディアウ、ニコラス・バトゥム、ナンド・デ・コロらとともに金メダルを獲得し、この大会でMVPを獲得している[15]。 ユーロバスケット2013で、リトアニアを80対66で破り優勝し、MVPとなった[16][17]。2015年9月、ユーロバスケット史上、歴代1位となる1,032得点を記録した[18]。 その他
脚注
外部リンク
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