トラビス・イシカワ
トラビス・タカシ・イシカワ(Travis Takashi Ishikawa、日本名:石川 隆〈いしかわ たかし〉、1983年9月24日 - )は、アメリカ合衆国・ワシントン州シアトル出身で日系アメリカ人の元プロ野球選手(内野手)。 曽祖父が日本人で、父は日系、母は白人。ハワイにルーツを持つ日系4世である。 経歴プロ入り前シアトルで生まれ、フェデラルウェイで育ったイシカワは、シアトル・マリナーズファン[1]で特にケン・グリフィー・ジュニアやイチローのファンだった[2][3]。1997年9月27日にランディ・ジョンソンが通算2000奪三振を達成の試合を球場で観戦していたという[4]。2002年にはフェデラルウェイ市高校生選抜チームの一員として八戸市を訪れ親善試合に参加した[5]。 ジャイアンツ時代2002年のMLBドラフト21巡目(全体637位)でサンフランシスコ・ジャイアンツから指名を受け入団。同年、ルーキー級アリゾナリーグ・ジャイアンツでプロデビューを果たし、その後、A-級セーレムカイザー・ボルケーノーズへ昇格。 2003年はA-級セーレムカイザーとA級ヘイガーズタウン・サンズでプレー。 2004年はA級ヘイガーズタウンとA+級サンノゼ・ジャイアンツでプレー。A級ヘイガーズタウンでは97試合の出場でチーム最多タイの15本塁打を記録した[6]。 2005年は、年間通じてA+級サンノゼでプレイ。127試合の出場でチーム1位となる22本塁打・長打率.532を記録[7]。オフの11月17日にジャイアンツとメジャー契約を結び、40人枠入りを果たした[8] 2006年は開幕をAA級コネチカット・ディフェンダーズで迎えたが、4月17日にランス・ニークロの忌引に伴い、メジャー昇格を果たし、4月18日にメジャーデビュー[9]。しかし、メジャーデビューの2日後にニークロが復帰したため、AA級コネチカットヘ降格した[10]。この年は12試合の出場に終わった。 2007年はメジャーに昇格することなくシーズンを終え、2008年8月13日に2年ぶりにメジャー昇格[11]。33試合の出場で、打率.274・3本塁打・15打点を記録。また、マイナーリーグでは、いずれもイシカワ自身が2005年に記録した数字上回る打率.299、24本塁打、94打点、10盗塁という成績を残している。 2009年はメジャーリーグ定着を果たし、120試合に出場した。打撃面では打率.261・9本塁打・39打点を記録した。シーズン後に発表された新人ベストナインの一塁手部門に選出された[12]。 2010年は、新加入したオーブリー・ハフが好調であった事[13]、ベンジー・モリーナが移籍するまで新人捕手のバスター・ポージーが一塁手で出場したこと[13]などが重なり、先発出場したのは25試合だけだった。シーズン通算では116試合に出場し、打率.266・3本塁打・22打点という数字を記録。同年のワールドシリーズ第一戦では代打で適時打を放った[5]。 2011年はAAA級フレズノ・グリズリーズで開幕を迎え、肩を故障したこともあって一年を通してメジャーリーグに出場することがなかった。AAA級では56試合に出場し、3本塁打18打点3盗塁、打率.251だった。オフの11月2日にFAとなった。 ブルワーズ時代2011年12月12日にミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約を結んだ[14]。 2012年4月4日にブルワーズとメジャー契約を結んだ[15]。5月27日に15日間の故障者リスト入りし[16]、6月23日に復帰した[17]。94試合に出場し、4本塁打30打点、打率.257だった。11月2日に40人枠から外れ、AAA級ナッシュビル・サウンズへ降格し[18]、11月3日にFAとなった。 オリオールズ時代2012年12月19日にボルチモア・オリオールズとマイナー契約を結んだ[19]。 2013年はAAA級ノーフォーク・タイズで開幕を迎え、49試合に出場。6月18日にオリオールズとメジャー契約を結び[20]、6試合に出場したが、打率.118と結果を残せず、6月29日にDFAとなった[21]。 ヤンキース時代2013年7月7日にウェイバー公示を経てニューヨーク・ヤンキースへ移籍[22]。移籍後は1試合に出場したが、デレク・ジーターの故障者リストからの復帰に伴い7月11日にDFAとなり、7月13日にFAとなった[23]。 ホワイトソックス傘下時代2013年7月18日にシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を結んだ[24]。AAA級シャーロット・ナイツで34試合に出場し、2本塁打23打点、打率.250だった。11月5日にFAとなった。 パイレーツ時代2013年12月18日にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んだ[25]。 2014年3月29日にパイレーツとメジャー契約を結び、開幕ロースター入りしたが、4月19日にDFAとなった[26]。4月22日にAAA級インディアナポリス・インディアンスへ降格した。4月23日にFAとなった。 ジャイアンツ復帰2014年4月25日に古巣・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ[27]。AAA級フレズノで71試合に出場し、11本塁打45打点、打率.271の成績で、7月29日にジャイアンツとメジャー契約を結んだ[28]。 チームがプレイオフに進んだ後、3勝1敗で迎えたリーグチャンピオンシップシリーズの第5戦、3-3の同点、9回1死一、二塁からサヨナラホームランを放ち、ワールドシリーズ進出を決めた。サヨナラホームランでワールドシリーズ出場を決めたのはイシカワが史上4人目。ナ・リーグでは初[29]。ジャイアンツ側はイシカワが放ったサヨナラホームランのボールの返却をファンに望んでいたが、そのボールを手にしていたファンが球団の要望を快諾し、イシカワ本人に直接ボールを返却した。代わりにイシカワのサイン入りバットとワールドシリーズ第3戦で始球式を行う名誉を得て、始球式を行った。その時は、左投げながらイシカワ自身が捕手を務めた[30]。 2015年は青木宣親の加入で出場機会を失い、一塁もブランドン・ベルトが好調で、休養時もバスター・ポージーが一塁を守れることから、5月25日にDFAとなり[31]、5月31日にAAA級サクラメント・リバーキャッツに降格した。6月24日青木の故障者リスト入りに伴い、メジャー契約を結び25人ロースター入りした[32]が7月3日にDFAとなった[33]。 パイレーツ復帰7月5日、ウェイバー公示を経てピッツバーグ・パイレーツに移籍した[34]。7月6日に25人ロースター入りし、サンディエゴ・パドレス戦に代打で出場した[35][36]。10月22日にFAとなった[37]。 ホワイトソックス傘下復帰2016年1月にシアトル・マリナーズとマイナー契約すると報じられた[38]が合意には至らず、2月9日にシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を結び、同年のスプリングトレーニングに招待選手として参加することになったと報じられ[39]、2月10日付でMLBの公式ページで公示された[40]。5月24日に自由契約となった[41]。 ジャイアンツ傘下復帰2016年6月7日に古巣・ジャイアンツとマイナー契約を結び、6月9日にAAA級サクラメント・リバーキャッツに配属された[41]。11月7日にFAとなった[41]。 現役引退後2018年より、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下ルーキー級アリゾナリーグ・ジャイアンツの打撃コーチに就任した[42]。 人物日系アメリカ人4世であり、日本語は話せないがご飯類が好物である[5]。 詳細情報年度別打撃成績
脚注
外部リンク
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