トラビス・ブラックリー
トラビス・ジャレッド・ブラックリー(Travis Jarred Blackley, 1982年11月4日 - )は、オーストラリア連邦ビクトリア州メルボルン出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 弟のアダム・ブラックリーもプロ野球選手。 経歴マリナーズ時代2000年10月29日にシアトル・マリナーズと契約を結んだ。 2001年は、A-級エバレット・アクアソックスで78回2/3イニングを投げ6勝1敗、防御率3.32、奪三振90を記録した。 2002年は、同じA級のサンバーナーディーノ・スタンピードで121回1/3を投げ、5勝9敗防御率3.49で152奪三振を挙げ、奪三振数ではマリナーズ傘下のマイナーチームでは2位の数だった。 2003年は、AA級サンアントニオ・ミッションズで投げ、162回1/3(リーグ4位)を投げて17勝(同1位)防御率2.61(同2位)144奪三振(同4位)。17勝はチームが所属するテキサスリーグでは1978年のジェフ・リアドン以来の数字だった。またテキサスリーグのオールスターゲームと、USセルラー・フィールドで行われたオールスター・フューチャーズゲームの世界選抜にも選出され、マリナーズのマイナーチームでのpitcher of the yearにも選ばれた。 2004年は、ベースボール・アメリカのトップ100プロスペクトで63位に入り、マリナーズ傘下のマイナーチームではフェリックス・ヘルナンデス、クリント・ナジョットに次ぐ3番目のプロスペクトという評価を受けた。2004年シーズンはAAA級タコマ・レイニアーズで開幕を迎えたが、フレディ・ガルシアがシカゴ・ホワイトソックスへトレードされて先発の枠に空きが生じたため、7月1日にマリナーズとメジャー契約を結び、同日のテキサス・レンジャーズ戦で先発起用されメジャーデビュー。5回2/3を投げて被安打6、4失点でメジャー初勝利を手にした。マリナーズの歴史でメジャーデビューで先発し勝利をあげた6人目の投手となった。しかし、その後1ヶ月は6度先発し1勝3敗、防御率10.04と成績が振るわず、8月1日にAAA級タコマへ降格した。AAA級では18回先発して8勝6敗防御率3.83とまずまずの成績を残すが、シーズン終盤に左肩の炎症で故障者リスト入りとなった。 2005年3月3日に、左肩の故障で60日間の故障者リスト入りし、シーズンを全休した。 2006年開幕前の3月に開催された第1回WBCのオーストラリア代表に選出されるが、肩のリハビリのため辞退した。シーズンではAA級サンアントニオで25試合に先発し、8勝11敗・防御率4.06の成績を残した後、AAA級タコマに昇格し、2試合に先発し、1勝1敗、防御率4.09でシーズンを終える。 ジャイアンツ時代2007年4月1日にジェイソン・エリソンとのトレードで、サンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍した。傘下のAAA級フレズノ・グリズリーズで開幕を迎え、28試合に先発し、10勝8敗、防御率4.66だった。9月23日にメジャーへ昇格し、同日のシンシナティ・レッズ戦でに3年ぶりとなる先発を任される。初回に2点を取られたが、残りを抑え5回を被安打3、4四球、5奪三振だった。オフの10月10日に40人枠を外れ、AAA級フレズノへ降格した。オフの11月に第37回IBAFワールドカップのオーストラリア代表に選出された。同大会では、予選・決勝全体で0勝1敗防御率1.64の好成績を記録。チームは予選のBグループを突破した末に、決勝トーナメントへ進出するが、初戦の日本戦に0-3で敗れた。ブラックリーは日本打線を抑えるも、日本代表の先発・攝津正がオーストラリア打線に得点を全く許さなかったため敗戦投手となった。 大会終了後には日豪親善野球日本代表最終強化試合のオーストラリア代表に選出された[1]。11月22日の試合に先発登板し、3回3被安打1失点で敗戦投手になったものの、1回裏には、巧妙な牽制球で日本代表の一塁走者・西岡剛からアウトを奪った。ちなみに、星野は試合後に「(西岡が)強烈な牽制を受けたことにド肝を抜かれた。(日本代表の)ダッグアウトでは、(西岡がアウトになった瞬間)誰もが『あんなのありかよ』と(叫んでいた)。(牽制の技術が)器用すぎるのでちょっと戸惑った」との感想を漏らしている[2]。 フィリーズ傘下時代2007年12月6日に行われたルール・ファイブ・ドラフトでフィラデルフィア・フィリーズから指名され、移籍。 2008年はAAA級リーハイバレー・アイアンピッグスでプレー。シーズン終了後にFAとなった。 ダイヤモンドバックス傘下時代2008年12月19日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスと契約した。 2009年は開幕前の3月に開催された第2回WBCのオーストラリア代表に選出された[3]。同大会では、キューバ戦に先発登板し、5回2/3を1失点に抑えた。シーズンでは、4月1日に40人枠を外れ、AAA級リノ・エーシズへ降格した。 メッツ傘下時代2010年2月4日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結び、AAA級バッファロー・バイソンズで開幕を迎えたが、5月2日に解雇される。 アスレチックス傘下時代その後、メキシカンリーグを経て[4]、2010年5月17日にオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結び、シーズンの大半をAAA級サクラメント・リバーキャッツでプレーした。オフには2010年から始まったオーストラリアン・ベースボールリーグに参加し、メルボルン・エイシズに所属した。12月5日のシドニー・ブルーソックス戦では降雨コールドながら1安打完封を記録した。 起亜タイガース時代2011年1月14日に韓国プロ野球の起亜タイガースと契約した。登録名は「トラビス」。25試合に登板して7勝5敗・防御率3.48・115奪三振の成績を残した。 ジャイアンツ時代2012年2月15日にサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに参加。5月1日ジャイアンツとメジャー契約を結び、リリーフとして4試合に登板したが、5月13日に戦力外となった。 アスレチックス時代2012年5月15日にウェイバーでオークランド・アスレチックスへ移籍し、5月18日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦にリリーフとして移籍後初登板。5月28日のミネソタ・ツインズ戦では移籍後初めて先発し、その後先発ローテーションに加わる。24試合(先発15試合)に登板して6勝4敗・防御率3.86・69奪三振の成績を残した。 2013年3月29日に戦力外となった。 アストロズ時代2013年4月4日にジェイク・ゴーバートとの交換トレードで、ヒューストン・アストロズへ移籍した。8月8日に戦力外となり、10日にAAA級オクラホマシティ・レッドホークスへ降格した。 レンジャーズ時代2013年8月14日にトレードでテキサス・レンジャーズへ移籍し[5]、20日にレンジャーズとメジャー契約を結んだ。オフの11月4日にFAとなった。 楽天時代2013年12月21日に東北楽天ゴールデンイーグルスと契約合意した[6]。 2014年5月25日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で来日初登板。5回2失点の内容で試合は継投で楽天が3対2で勝利し、来日初勝利を挙げた[7]。12月2日に自由契約公示された[8]。 楽天退団後2015年1月12日にサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結ぶが、4月2日に自由契約となった。4月24日にマイアミ・マーリンズとマイナー契約を結んだ。傘下のAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズでプレーし、23試合(先発12試合)に登板して5勝7敗・防御率5.46・66奪三振の成績を残した。オフに自由契約となる。 2016年開幕前の1月28日に第4回WBC予選のオーストラリア代表に選出された[9][10]。2月14日の決勝戦南アフリカ戦に先発登板したが6回途中4失点とリードを許したまま降板して、勝利投手になれなかった。同大会でオーストラリアは本戦出場を決めている。大会終了後の4月19日にメキシカンリーグのプエブラ・パロッツと契約。オフの12月20日にデトロイト・タイガースとマイナー契約を結んだ[11]。 2017年1月6日に傘下AAA級トレド・マッドヘンズへ配属された[12]。シーズン開幕前の2月9日に第4回WBC本戦のオーストラリア代表に選出された[13]。3月9日の中国戦に先発登板し、勝利投手となった。WBC終了後の3月30日に解雇され[14]、4月7日に前年まで所属していたパロッツへ復帰したが[15]、5月7日に解雇となる。7月6日に独立リーグ・パシフィック・アソシエーションのピッツバーグ・ダイアモンズと契約し、2018年まで所属した。 2019年、プレミア12のオーストラリア代表に選手された[16]。 2021年2月7日、自身のツイッターにおいて現役引退を発表した[17]。 選手としての特徴・人物打たせて取る投球スタイルが特徴[18]。持ち球はツーシーム、チェンジアップ、スライダー、カットボールなど[19][20]。 妻と2005年に生まれた一人の息子がおり、オフは家族でアリゾナ州フェニックスに住んでいる。 詳細成績年度別投手成績
記録
背番号
代表歴
脚注
関連項目
外部リンク
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