トレビゾンド帝国
トレビゾンド帝国(トレビゾンドていこく、英語: Empire of Trebizond / Trapezuntine Empire)とは、13世紀から15世紀にかけて存在した、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を引き継いだ3ヵ国の残存国家のうちの1つであり、アナトリア半島の北東端(ポントス)とクリミア半島南部で構成されていた。コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)の数週間前、コムネノス家のアレクシオス1世指揮によるテマとパフラゴニアへのグルジア軍遠征後、この帝国はグルジア王国の女王タマルの助力を得て1204年に成立した[3]。アレクシオスは後に自らを皇帝と宣言し、トレビゾンド(現代のトルコ・トラブゾン)にて即位した。退位させられた皇帝アンドロニコス1世コムネノスの曾孫かつ最後の男系子孫であったアレクシオスとダヴィド・コムネノス[4]は、東ローマ皇帝アレクシオス5世ドゥーカスに対し「ローマ皇帝」として自らの継承権を訴えた。後世の東ローマ皇帝や、ゲオルギオス・パキュメレス、ニケフォロス・グレゴラスといった作家、そしてヨハンネス・ラザロプロスやヨハンネス・ベッサリオンなどのある程度のトレビゾンド人は、トレビゾンド皇帝を「ラズ人の君侯」と見なした一方、彼ら「君侯」の領有地はラジカ王国とも呼ばれた[3][5]。このように、ラスカリス家や後のパレオロゴス朝と関連のある東ローマの作家らの観点では、トレビゾンドの君主は皇帝ではなかったのである[3]。 第4回十字軍がアレクシオス5世を打倒してラテン帝国を樹立した後、エピロス専制侯国とラスカリス家のニカイア帝国とともに、トレビゾンド帝国は皇位を主張するため東ローマの継承国3ヵ国のうちの1つとなった[6]。それに続く戦争は、ニカイア帝国と第二次ブルガリア帝国の抗争によりイピロスから勃興したテッサロニキ帝国を崩壊させ、ニカイアによる最終的なコンスタンティノープルの回復 (1261年)に至った。ニカイア帝国のコンスタンティノープル再占領にもかかわらず、トレビゾンド皇帝らは20年間にわたり「ローマ皇帝」を自称し、皇位に対する主張をし続けた。しかし再占領から21年後、トレビゾンド皇帝ヨハネス2世はローマ皇帝位とコンスタンティノープルそのものに対する主張を公式に諦め、彼の皇位を「ローマ人の皇帝とアウトクラトール」から「全東方世界とイベリア人、ペラテイアの皇帝とアウトクラトール」に改めた[注 1][8][9]。 東ローマの継承国のなかで、トレビゾンドの君主制は最も長く残存した。トレビゾンド帝国は、1ヵ月に及んだトレビゾンド包囲戦と最後の皇帝ダヴィドとその一族が拘束された後、オスマン帝国のメフメト2世が1461年に征服するまで続いた[10]。 起源中世後期における小規模な帝国の中核となる前から、トラブゾンは既に自立した統治の長い歴史を有していた。天然の港や防御しやすい地形、銀と銅鉱山へのアクセスなど、トラブゾンは創設後間もなくして、黒海東部沿岸における卓越したギリシア人植民地となった。ローマ帝国の都からの遠隔性は、現地の支配者らに自らの利益を促進する機会を与えた。トレビゾンド帝国樹立前の数世紀に及び、その都市は地元のガブラス家の統治下にあり、公式には東ローマの一部のままでありながら、独自の硬貨を鋳造していた[11]。 トレビゾンド帝国の君主は自らのコムネノス家の血統を誇って「大コムネノス(Megas Komnenos)」の家名を使用し[4][12]、当初は「ローマ人の皇帝にしてアウトクラトール」としてニカイア帝国やエピロス専制侯国のように支配権を主張した。しかし、ニカイア帝国のミカエル8世パレオロゴスが1261年にコンスタンティノープルを再征服した後、「皇帝」という称号のコムネノス家の使用は弱点となった。1261年、ニカイア帝国のミカエル8世によるコンスタンティノープル再征服がなされた。1282年にヨハネス2世 (トレビゾンド皇帝)がコンスタンティノープルを訪問した際に「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」の称号を放棄し[13]た(東ローマ・トレビゾンド条約)。 地理地理的に、トレビゾンド帝国は黒海の南岸とポントス山脈の西半分に沿った狭い地域、ガザリアのペラテイア(南クリミア)から構成された。ケルソンやクリミアは、コンスタンティノープルよりもトレビゾンドとの経済的関係が深かったためにアレクシオスの支配を受けることとなったが、彼の時代の末期からは、クリミア領の統治はタタール人やイタリア商人が中心となっていった[14]。 地形はこの国の南部の国境も定義した。ポントス山脈は初期にはセルジューク朝の、後にはトルクメン人の襲撃者への障壁としての役割を果たしており、彼らの略奪は皇帝が対処できる規模にまで減退し[15]、南から侵入しようとする外敵に対する天然の要害として機能していた[16]。初代皇帝の若き弟ダヴィド・コムネノスは、最初にスィノプを、そしてパフラゴニア沿岸部(現代のカスタモヌ県、バルトゥン県、ゾングルダク県の沿岸地域)やヘラクレア・ポンティカ(現代のカラデニズ・エレーリ)を占領し、ニカイア帝国に接するまで西方へ急速に領域を広げた[14]。しかし、この拡大は短命に終わり、スィノプ西部の領土は1214年までにテオドロス1世ラスカリスに破られ、13世紀の残りの期間にわたりその支配をめぐってトレビゾンド皇帝らは戦い続けたが、同年にスィノプ自体もセルジューク朝の手に落ちた[17]。 経済モンゴル帝国とイスラム勢力の衝突が熾烈になると、中央アジア出身のキャラバンはイル・ハン国の都タブリーズとトレビゾンド帝国を経由してヨーロッパ方面に出る航路を使うようになった[18]。これを受けた帝国政府は貨幣と度量衡をタブリーズの基準と合致させ、13世紀後半にはヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国の商人がトレビゾンドに居留地を置くようになった[18]。トレビゾンドは3パーセントの関税を徴収することで、ポントス山脈の銀鉱床[16]と併せ莫大な収入を得られたが、そうした商業活動を維持するための国家安全保障として、皇女と多額の持参金をイスラム教国に献上する必要などがあった[19]。 宗教と思想キリスト教はトレビゾンド社会で強く影響を及ぼした。当時の修道士らにより記されたヴァゼロン修道院文書(Acts of Vazelon)によると、帝国領マチュカ地域の多くの農民が、キリスト教の聖職者に関連した名を有していた。姓は聖人や交易、地名に関することもあった[20]。このマチュカはトレビゾンドとタブリーズの間にある貿易ルート上にあったため、都よりも帝国の中枢と呼ぶに相応しかった[21]。また、マチュカのスメラ修道院は大領主として地域の秩序を維持し、現地民の文化的アイデンティティの拠り所でもあった[21]。 パレオロゴス家の東ローマ皇帝らが西ヨーロッパ諸国の圧力を避けるべく、ローマ教会に媚態を示すことがあった一方、トレビゾンド帝国は国内外の教会と修道院に丁重な維持管理を施すことで、自国こそが正教会の信仰に忠実であることを示していた[22]。 また、トレビゾンド文化は中世ギリシア語の基盤に築かれたことからギリシア色が強かったが、皇帝や国民がそれを「ギリシアの」と称することはなく、それをローマのものと見なした[21]。 フィクショントレビゾンド帝国は、「その都を通ったペルシアや東方からの貿易によって繁栄」しているという西欧諸国における評判を得ており、スティーヴン・ランシマンによれば、「丘陵に隠れた銀山によって、そして皇女の美しさによって」栄えていた[23]。ドナルド・ニコル(Donald Nicol)はランシマンの洞察を繰り返して次のように述べている。「皇帝らの多くは結婚可能な娘の継承者が多く、トレビゾンド皇女の美しさは彼女らの持参金の豊かさと並んで伝説的であった[24]。」その富と異国風の土地は同国の名声を長引かせた。ミゲル・デ・セルバンテスは、「彼の腕の勇敢さは、少なくともトレビゾンド帝国にて既に戴冠された」 として、ドン・キホーテの名の由来となった主人公を描写しており、ドン・キホーテが玉座を目指した国こそが「トラピソンダ帝国」であった[13]。作家フランソワ・ラブレーは、ピエモンテの支配者である登場人物Picrocholeに「私はトレビゾンド皇帝にもなりたかった」と言明させた。また、13〜14世紀にかけて建設された都の塔に触発されたローズ・マーコリーが小説『トレビゾンドの塔』を著すなど[16]、トレビゾンド帝国を舞台にしたそのほかの隠喩や作品は20世紀まで続いた[25]。 イタリア語には、「当惑する」を意味する「トレビゾンドを失う(perdere la Trebisonda)」という表現がある。トレビゾンドは黒海を渡るいかなる航路でも到達可能な港であったため、嵐の際の待避所でもあった[26]。 歴代皇帝
系図
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
外部リンクInformation related to トレビゾンド帝国 |