ドキュメント女ののど自慢ドキュメント女ののど自慢(ドキュメントおんなののどじまん)とは、かつて日本テレビ系の朝のワイドショー番組『ルックルックこんにちは』(1979年4月 - 2001年3月)内で毎週水曜日に放送された視聴者参加型のコーナーで、1979年9月から最終回まで放送した番組名物の看板長寿企画であった。 概要内容毎週、5~10名の女性出場者が自分のドキュメント(大抵が波乱万丈話[1]。当初はスタジオで日テレアナウンサーやレポーターがナレーションを行ったが、後にVTRを流す方式になる)を紹介された後、持ち歌を熱唱。審査員の得点に応じて賞品が贈られる。 歌が余り上手くなく、審査員(プロフェッショナル審査員、以下レギュラー審査員)の点数が低くても、ドキュメントの内容によっては一般主婦審査員(詳細は後述、以下主婦審査員)の温情で合格出来ると言うのも、従来の素人歌番組には無い特徴であった。 夏休みなど学校休みの時期になると、女子高校生大会なども企画されていた。グランドチャンピオン大会が企画された事もあった。又、男子高校生大会など、タイトルに反して、男性限定の企画も放送された事がある。尚、これらの特別企画に出場して、後に演歌歌手やアーティストとしてデビューした人も少なくない。観客席には後述の主婦審査員に加えて、応援に来た出場者の家族や友人も招待しており、横断幕[2]を掲げて声援を送るのが恒例だった。 審査方法審査方法は4名(コーナー開始時~1986年秋頃まではレギュラー審査員のみ3名、それ以降から最終回まで審査員4名。4名体制時も概ねレギュラー審査員のみ[3]だったが、末期である1998年頃からはレギュラー審査員2名とゲスト審査員の体制(後述))の審査員と30名の主婦審査員(この当時のワイドショーや同局の『午後は○○おもいッきりテレビ』などでよく見られた中年女性の観客)からなり、審査員の持ち点は各100点、主婦審査員は各1点の合計430点満点。 各賞(後述)には合格点が設定され、獲得点数がそれ以上であれば合格、それ未満では不合格となる。この為、審査員の点数だけで合格、または不合格になったケースも年に数回はあった。 審査の得点は同時発表ではなく、審査員→主婦審査員の順に発表される。 末期での審査員構成は、レギュラー審査員2名の他にゲストタレント1名とゲスト演歌歌手またはアーティスト1名(または2名)になっていた。その為、末期ではゲスト審査員はレギュラー審査員と比べ採点が若干甘めであり、不合格者は殆ど出なくなった。 100点満点を付けた審査員は松居一代と細川たかし。松居はゲスト審査員を勤めた際、細川は中山大三郎の代理審査員として審査をした際、1回だけ付けている。又、レギュラー審査員での最高点は船村徹、千葉紘子、若原一郎が付けた99点。 このコーナーの審査員点数は80点台後半が一般レベルの平均であり、90点台だとプロ歌手になれる可能性があり、そこからプロデビューした出場者もいた。なお、70点台以下を付けられることは滅多になかった[4]。 賞スペシャル賞(当初は無く、後に追加)
A賞
B賞
C賞
D賞(末期に廃止)
審査員の合計点のみで合格点に達すると合格音、審査員の合計点と合格点の差が30点を上回ると不合格の音楽がその時点でそれぞれ鳴る。 主婦審査員の得点は大抵10~20点だった為、どの賞でも合格点から審査員の合計点を引いて残り10点以下であれば大抵は合格出来たが、残りが20点以上だと合格が厳しく、主婦審査員の得点を足しても合格点には届かず、ほぼ絶望的になるパターンが多かった。しかし、スペシャル賞に挑戦して残りが20点以上の場合でもプロ並みの歌唱力を持っていれば合格出来た(合格の例は後述の「素人時代に出場した有名人」を参照)。 A賞~D賞それぞれに3~4の賞品(A賞は航空券など。他に指輪、高級和牛、温泉宿泊券、自転車など)が設定され、ドキュメントの紹介の前に賞を選択する。また、スペシャル賞で合格すると、天井から大量の紙吹雪が降り、A賞~D賞の全賞品が一括して(後に副賞として、数十万~百万円相当の豪華カラオケ機器も併せて)贈られる。この他参加者全員に贈られる「参加賞」や、なべおさみが司会を務めていた当時は「なべ賞」と言う特別賞も設けられ、不合格者から1名を選び、鍋を贈る。 セット
コーナー司会
温かみのある司会進行で番組の顔と言える存在だったが、息子のなべやかん(当時は一般人)の大学替え玉受験の一件で降板を余儀なくされる。
なべの司会の時は審査員を務めていたが、なべの降板を機に司会へ転向。得意の早口を生かしたスピーディな進行と、しっとりした口調を場面に合わせ使い分ける事で独自のカラーを打ち出した。 レギュラー審査員
他 素人時代に出場した有名人
出場した芸能人
他多数 脚注 |