ドジャースの戦法
『ドジャースの戦法』(ドジャースのせんぽう、原題: The Dodgers' Way to Play Baseball)は、メジャーリーグベースボール(MLB)球団、ブルックリン・ドジャースのスプリングトレーニングにおける訓練係を長年担当してきたアル・キャンパニスが1954年に著した野球技術書かつ野球指導書。スモールベースボールの礎となった[1]。 日本語に翻訳したのは内村鑑三の息子でのちに第3代日本プロ野球コミッショナーとなる内村祐之である。9年連続日本シリーズ制覇という偉業を成し遂げた読売ジャイアンツの監督、川上哲治がその戦法を導入し、徹底して実践したことで日本でも野球教本として広く知られるようになった。 原著と日本語訳本書はアメリカ合衆国フロリダ州ベロビーチにおいて毎年600人ものプロ野球選手を集めて開催されるメジャーリーグベースボール(MLB)球団、ブルックリン・ドジャースのスプリングトレーニングの訓練係を長年担当するアル・キャンパニスがノートに書き続けてきた野球技術の教育方法に関する講義と討論の内容を集めたもの、つまりは当時の多くの野球関係者の意見をまとめたレポートを書籍化したものである[2]。「ドジャース戦法」とは貧打のチームでありながら、守備を最大限に活かして守り勝つ野球でナショナルリーグの覇権を争っていたドジャースが駆使する当時の最新の野球戦術であった[3]。攻撃では犠打やヒットエンドランを用いて得点を取り、守りでは失点を防ぐためにバント対策でシフトを敷く際に外野手もカバーに走るというようなチームプレーが戦法の骨子となる[4]。投手や守備に関する記述が最初の半分以上を占めているのが特徴である[5]。 本書が発売される前に、1955年4月から1957年4月まで野球雑誌の『月刊ベースボールマガジン』誌上でまず連載され、当時の日本でも野球技術書として紹介されていた[6]。日本語への翻訳にあたっては内村祐之の娘である多摩清が下訳したものを祐之の夫人(内村美代子)が読みやすい日本語に書き改め、最後に祐之が目を通して誤りを改めるという「内村家の翻訳工場」の形式を使用している[6]。 内容本書は第1部「守備編」、第2部「攻撃編」、第3部「指揮編」で構成されている。 守備編
1章の「フォロースルーが不完全」、つまりは背中を真っ直ぐにしたまま投げる投手の欠点を改善するための方法として、準備運動をすませた投手の利き腕に木片か鉛筆を握らせて、投球の形をやらせてみるよう勧めている。フォロースルーが終わったところで、その背中が曲がっていることを確かめた上で、木片なり鉛筆なりを落とさせる。その後は自然の動作にかえって投球させるが、そのたびに木片なり鉛筆なりに触らなければならない。目的と動作が決められているので、投手は自然と背中を曲げるようになるという。訳者の内村祐之もこれは非常に良い方法だとしている。ボブ・ミリケンはドジャースで行われているこの練習方法で欠点を克服したという[7]。 攻撃編
9章の投球の判断力を養う方法として、ひもを張りわたして打者はそのひものところで普段の打撃姿勢を取り、投手は捕手に向けて投球する。打者はその投球に対してスイングしないかわりにその球がホームプレートに近付いた時にストライクあるいはボールと言う。次の瞬間にその球がストライクゾーンに入ったかどうか見極めて自分の判断を確かめさせるという練習を勧めている。デューク・スナイダーもプロ入り当初は名うての悪球打ち打者であったが、この方法によって悪球の見分け方を学び、立派な選球眼を得たという[8]。 指揮編
野球界に与えた影響本書はチームの新人選手を指導するための教本としてロサンゼルス・ドジャース組織では「バイブル」のように重宝され[9]、1998年シーズン開始前にルパート・マードックによって球団が買収されるまではその影響力を保持していた[10]。ギル・ホッジスは「ドジャース戦法」をニューヨーク・メッツにもたらし、1969年シーズンにチームを「ミラクルメッツ」と呼ばれる奇跡的な優勝に導いた[11]。また、2000年シーズン時点で1981年と1988年シーズンのワールドチャンピオンに輝いた当時のメンバーに限定しても、MLB球団の監督もしくはコーチを務めるドジャース出身者はマイク・ソーシア(アナハイム・エンゼルスの監督)、デイビー・ロープス(ミルウォーキー・ブルワーズの監督)、ビル・ラッセル(ドジャースの元監督、タンパベイ・デビルレイズの三塁コーチ)、ダスティ・ベイカー(サンフランシスコ・ジャイアンツの監督)、リック・デンプシー(ドジャースの三塁コーチ)、アルフレッド・グリフィン(エンゼルスの一塁コーチ)、ミッキー・ハッチャー(エンゼルスのバッティングコーチ)、ロン・レニキー(エンゼルスの三塁コーチ)、ジョン・シェルビー(エンゼルスの一塁コーチ)と合わせて9人にのぼり、この時期にアメリカ国内でもMLB各球団首脳にドジャース出身者が増殖中であることは話題となった。その理由として挙げられたのが現代野球の指導法について書かれた本書である[12]。 現役選手時代に「打撃の神様」と言われ、戦時中から戦後にかけて活躍した川上哲治が最初に本書を読んだのはヘッドコーチ時代のことであったが、その時は強い印象は残らなかったという[13]。しかし、戦力に乏しい大リーグのドジャースが毎年優勝争いをしている点に注目した川上は読売ジャイアンツの監督1年目となった1961年春にチームとドジャースのベロビーチにおける合同キャンプを実現させその事前準備のために本書を再読[14]。そして、監督経験から認識を変えて読んだ結果、かつての自分を恥じ入るほどその内容に驚かされ、また納得させられすっかりドジャース戦法の虜になってしまった[15]。すぐさま本書を何十冊と取り寄せ、「必ず読んでくれ」と巨人の選手たちに配った[16]。彼は考え抜いた末に「弱いチーム」を強化するには一人ひとりが強くなる以外に方法はないという結論に至り、何をどのように強化するかという疑問に対する答えをドジャース戦法から導き出したのである[3]。本書を教科書としてブロックサインやヒットエンドランなどの新しい野球がチームに導入された[17]。投手の一塁ベースカバーや投手がモーションを起こすと同時に、一塁手と三塁手が本塁に向かってダッシュする、バント阻止のためのバントシフトを日本で初めて実践したのも川上巨人である[18]。川上の下でヘッドコーチを務めた牧野茂はボロボロになるまで本書を読みふけり[19][20]、その内容をすっかり丸暗記してしまったほどであった[21]。 当時の正遊撃手だった黒江透修は元々あった攻撃力に投手力を含めた守りの野球であるドジャース戦法をミックスさせたことで、巨人は攻めも守りも優れたチームに変わっていったと語る[22]。また、正三塁手の長嶋茂雄によると本書は「野球の基本を書いた教科書」であるが、彼は川上が読み込んで基本の奥に潜む意味を考え抜き、優れた才能が奇跡的に集まった当時の巨人にドジャースの守り中心の野球を取り入れて巨人流に磨き上げた結果、「V9」に繋がっていったとの見解を示している[23]。 脚注
参考文献
関連項目 |