ドロシー・ホジキン
ドロシー・クローフット・ホジキン(英語: Dorothy Crowfoot Hodgkin、1910年5月12日 - 1994年7月29日)は、エジプト王国カイロ生まれ、イギリス国籍の生化学者、化学者、結晶学者。X線回折法による生体物質の分子構造の決定により1964年にノーベル化学賞を受賞した[1][2]。旧姓はドロシー・メアリ・クローフット(Dorothy Mary Crowfoot)である。 夫は歴史学者のトマス・リオネル・ホジキンで、1937年に結婚して3人の子を儲けた[3]。イギリスの化学者マックス・ペルーツはホジキンを「彼女は偉大な化学者で、聖人」と述べている[3]。 生涯ドロシー・メアリ・クローフットは1910年5月12日、父の赴任先であったエジプト王国のカイロに監督官の父ジョン・ウィンター・クローフット(John Winter Crowfoot、1873年 - 1959年)と考古学者であった母グレース・クローフット(Grace Crowfoot、1877年 - 1957年)の元に生まれ、10歳の頃に化学の初歩を学び、結晶や化学に興味を持った。 16歳の誕生日に母からイギリスの物理学者であるヘンリー・ブラッグの著書『物の本性について(Concerning the Nature of Things)』(1925年)を与えられ、結晶学に興味を抱くようになる[3]。18歳の頃にはパレスチナに趣き、発掘作業に参加する[2]など、考古学にも関心を示した[3]。 1928年にイギリスのオックスフォード大学サマーヴィル・カレッジに入学。化学を専攻する一方、結晶学のコースも専攻していた。1932年にオックスフォード大学を卒業し、ケンブリッジ大学ニューナム・カレッジに博士課程修得のため、有機化合物のX線結晶構造解析のパイオニアであり、科学史家でもあったジョン・デスモンド・バナールのもとで研究をした。なお、この頃(20代の半ば)よりホジキンは慢性関節リウマチを患うようになっていた[4]。 1934年にはオックスフォード大学の講師、研究員として同大学に戻り、教鞭を執った。なお1940年代、ホジキンが受け持った生徒の中に後にイギリスの首相となるマーガレット・サッチャー[5]がいた。 1935年に1930年代の分子生物学におけるX線結晶構造解析の第一人者であったジョン・デスモンド・バナールと共にペプシンの結晶で回折パターンを見出した[6]。 1937年、歴史学者のトマス・リオネル・ホジキンと結婚。後に3人の子を儲けた。 1941年頃から1949年頃にかけて、当時開発されて間もないコンピュータを用いてX線の実験データを解析し、ペニシリンを構造決定した[4]。また1948年頃から1956年にかけては、ビタミンB12を構造決定した[2]。1969年にはインスリンを構造決定した。 1970年、ブリストル大学名誉総長(Chancellor)に任命される。1988年まで同職にあった。 1994年7月29日、イギリスウォリックシャーのイルミントンで死去。84歳。 受賞・栄典1965年には女性として2人目のメリット勲章をエリザベス2世から叙勲された[7]。また、王立協会より1970年にはベーカリアン・メダル、1976年にはコプリ・メダル、1972年にはアメリカ糖尿病協会よりバンティング・メダル、1982年にはロシア科学アカデミーよりロモノーソフ金メダルが授与された。 その他ホジキンを扱った伝記等
脚注
参考文献 |