ニヴェル攻勢
ニヴェル攻勢(ニヴェルこうせい、英語: Nivelle Offensive、フランス語: Offensive Nivelle)は、第一次世界大戦中1917年の西部戦線における連合国軍による攻勢。大きな損害を出し失敗に終わった。内容として幾つかの局面を含む。
背景1916年、フランスは焦っていた。戦線の膠着に次ぐ膠着で国内に厭戦気分が漂い、徴兵できる人間も枯渇しかけていたためである。これを打破するためにまずフランスは、司令官ジョフルを元帥に昇格させた。しかし僻地へ異動させた。新たに指揮官になったのがニヴェルであり、彼の行った大攻勢がのちに「ニヴェル攻勢」と呼ばれる、1917年春季の大攻勢である。
起端「私は勝利の秘密を知っている!!!」 「48時間以内にフランスに勝利をもたらす!!!」 仏軍の新指揮官であるニヴェルは豪語した。この大胆な発言はフランス国民を熱狂させた。これにイギリスの政治家も動かされ、英軍のヘイグの猛抗議にもかかわらず、イギリス軍はフランス軍の指揮下に入った。1917年になり、ドイツ軍はジークフリート線に後退した。仏英軍は訝しみながらも慎重に追撃進軍すると、行く先々の木が抜かれ、井戸には毒が投入され、その先には堅牢な要塞が作られていた。この焦土作戦はフランスの怒りを買い、戦後にヴェルサイユ条約で恨みを晴らされることとなる。 この要塞戦線を突破するために予想される犠牲は1万人程度と見積もられた。フランス首相の後押しもあり、多くの高官達の反対にもかかわらず計画は実行された。1917年4月16日にイギリス軍ヘイグは陽動の為にアラスで攻勢をかけ、イギリス軍は死傷者は16万ほど出した。陽動は成功したかのようにみえたが、ドイツ側のルーデンドルフはスパイを通し攻撃作戦を入手しており、この陽動は筒抜けであった。 戦闘ニヴェルは「勝利の秘密」の正体を明らかにした。端的に言えば「砲撃の後ろで歩兵が匍匐前進をする。砲撃の距離をどんどん長くし、それに合わせ歩兵も匍匐前進をしつつ進軍、このまま敵陣地まで味方の砲撃の弾幕で歩兵を守り、強襲する」というものである。 しかし、これは完全に机上の論理であった。当時の技術ではそこまで精密な砲射撃ができず、砲弾が匍匐前進する味方歩兵の頭上に落ちてくる例が散見された。さらに当たり前であるが匍匐前進で進む予定の地面は味方の猛烈な砲撃弾幕によりクレーターだらけであり、これが進軍を阻むことになった。折しも雪がまだ解けておらず天候も悪かったため、凍えるため匍匐することもできず、また悪天候とクレーターで走ることもできなかった。 攻勢初日に38万人の歩兵が突撃したが、約5万人もの損害を出した。さらに場所を変え攻撃したが、結果はわずかに前進できた程度で完全に失敗であった。
結果ニヴェルのフランス軍は48時間で突破に成功するどころか、ほとんど前進できなかった。攻勢の終末の1917年5月9日にニヴェルはアフリカに更迭された。後任のフランス陸軍総司令官には第2軍司令官「ヴェルダンの英雄」ことフィリップ・ペタンが任命された。 フランス軍だけで18万7千人以上の損害を出したことと、ニヴェルが約束した勝利の言葉が虚偽に終わったことから、以後フランス軍内の士気は極端に乱れ、大規模な抗命事件やフランス軍反乱が続発した。
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