第五次イーペル会戦
第5次イーペル会戦(だいごじいーぺるかいせん、英: Fifth Battle of Ypres)は、第一次世界大戦中、1918年9月下旬から10月にかけてフランス北部とベルギー南部(フランドル地方)で行われた一連の戦闘である。フランドル峰の戦い、フランドル侵攻作戦とも呼ばれる。[2] 背景1918年の春季攻勢が頓挫し、ドイツ軍の士気は急激に低下。その上西部戦線のアメリカ軍兵力は増加の一途を辿り、協商国軍とドイツ軍の兵力差は増していた。この数的優位を利用し、フランス元帥フェルディナン・フォッシュは百日攻勢として知られる、ドイツ軍の全戦線への攻勢戦略を立案した。[3]この計画においてイーペル周辺のベルギー、イギリス、フランス軍はリエージュに向け攻勢し、北側から挟み撃ちを形成することとなっていた。[4]イギリス第2軍はドイツ軍の小規模な撤退を追撃し、8月18日にウットゥステンヌで戦闘を行ったが、それ以降戦闘は小康状態となった。この地域に展開する協商国軍は、9月下旬までに十分な休息を取っていた。[5] 戦闘戦闘の経過ベルギー軍のフランダース軍集団は3時間の砲撃を経て、9月28日午前5時30分に攻撃を開始した。[6][7][8]フランダース軍集団は当時、ベルギー軍12個師団、イギリス第2軍の10個師団、フランス第6軍の6個師団により構成されていた。イギリス軍はイーペルとパッシェンデールを結ぶ7.2kmの戦線を、ベルギー軍がそこから北のディクスミュードまでの攻撃を担当した[9]。協商国軍はすぐにドイツ軍防衛線を突破し、9km前進。1918年初頭の撤退で放棄されたパッシェンデール西部が奪還された[10]。 雨が降り始める中、夕方までにイギリス軍はコルテヴィルデ、ザントフォールデ、クライゼッケ、ベセラエレを、ベルギー軍はゾンネベーケ、ポールカッペル、シャープ・バイリー、ハウトルストの森を占領した。 戦線の南側面ではイギリス軍3個師団による小規模な攻勢が行われ、サン・イヴ、メシーヌ、そしてヴィッシェテからホレベーケまでの尾根に進軍した[11]。ドイツ軍の前線はディクスムイデからハウトハルト、ベツェラーレ、ザントフォールデ、ホレベーケまで続いていた[7]。 メシネス、テルハンド、ダディゼールは9月29日に陥落し、翌日には占領地は泥沼と化したものの、イーペル周辺の高地はすべて連合軍に占領された[12]。10月1日までにレイエ川左岸はコミネスまで占領され、ベルギー軍はムーズレーデからシュターデン、ディクスムイデに至る戦線の東側に展開していた。進軍は10月2日まで続けられたが、ドイツ軍の増援が到着し、更に補給も追いつかなくなっていたために攻撃は中止された。悪路のため、15,000食分の戦闘糧食がベルギーとイギリスの80機の航空機からパラシュートで投下された[13] 。 この戦闘で協商国軍は最大29km、戦線全体の平均で9.7km前進した。 余波損害イギリス軍は4685人、ベルギー軍は2000人の死者と約10000人の傷病者を出し[14]、ドイツ軍は約10000人の捕虜を出し、300丁の銃、900丁の機関銃を鹵獲された[15]。 その後の作戦戦闘序列協商国軍フランダース軍集団 (司令官: アルベール1世 参謀長: ジャン・マリー・デグー)
ドイツ軍脚注出典
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