ネルソン・トラスラー・ジョンソン
ネルソン・トラスラー・ジョンソン (Nelson Trusler Johnson, 1887年 4月3日 - 1954年 12月4日 )は、アメリカ合衆国 の外交官 。
生い立ち
1887年 4月3日 、ジョンソンはワシントンD.C. のイースト・キャピタル・ストリート1丁目(現在の合衆国最高裁判所 の一部)にあった長屋で誕生した。父親はインディアナ州 出身の弁護士 ジェレミア・ジョンソン (Jeremiah Johnson, 1857-1936) 、母親は同じくインディアナ州出身のサロメ・トラスラー (Salome Trusler, 1865-1924) であった[ 1] 。
ジョンソンはオクラホマ州 のニューカーク およびキルデア で若年期の多くを過ごした。その後ジョンソンはシドウェル・フレンズ・スクール を卒業するためワシントンD.C.に戻り、ジョージ・ワシントン大学 へ進学した。ジョンソンはデルタ・タウ・デルタ に参加した[ 2] 。
国務省での活動
ジョンソンは大学1年生のとき、居住地をオクラホマ州 に移して外交官試験を受けた。ジョンソンは外交官試験に合格し、オクラホマ州を出身州として外交官への任命を受諾した。ジョンソンは政府内において成年期を過ごした。ジョンソンは中国を中心とする極東地域を担当した。ジョンソンは国務省 において見習通訳官を経て領事館官吏となった。ジョンソンは1914年 に上海領事館で副領事、1916年 から1917年 に長沙領事館で領事を務めた[ 3] 。そして1925年 に極東部の部長となった[ 4] 。
ジョンソンは1927年 から1929年 まで国務次官補 を務め[ 5] 、1929年 に駐中華民国公使となった[ 6] 。ジョンソンは1935年 に同大使に昇格し、1941年 まで同職を務めた[ 6] 。
ジョンソンは国務省で極東担当部長に就任して以来、アメリカの対中政策についての立案を担当し続けた。ジョンソンはカルビン・クーリッジ 政権、ハーバート・フーヴァー 政権、フランクリン・ルーズベルト 政権の対中政策に影響を与えた。ジョンソンはアメリカの利益に反しない範囲内で、可能な限り中国の主権回復をするよう主張した[ 2] 。
私生活
駐中国公使在任中、ジョンソンはジェーン・オーガスタ・ワシントン・ソーントン・ベック (Jane Augusta Washington Thornton Beck, 1900-1991) と結婚した。ジェーンはワイオミング州 の開拓者ジョージ・ワシントン・ソーントン・ベック の娘であった。2人は北京 において挙式をし、1931年 10月10日 に天津 の合衆国領事館で手続きを行った[ 2] 。
ジョンソンは1933年 に週刊誌タイム の表紙に取り上げられた[ 7] 。
ジョンソンは1954年 12月4日 にワシントンD.C. で死去した。ジョンソンの遺体はワシントンD.C.のロッククリーク墓地 に埋葬された[ 1] 。
参考文献