ハレ (ザーレ)(Halle (Saale)[2], 1995年まで:Halle/Saale)は、ドイツ連邦共和国ザクセン=アンハルト州の都市である。かつてはプロイセン王国、戦後は東ドイツに属した。人口は約24万人である。都市名はハレ・アン・デア・ザーレ(Halle an der Saale)とも表記される。
806年 ≫Halla≪と称する地の近くに、城砦が築かれた。東フランク王国ハインリヒ1世の下にザーレ川東岸に成立したギービヒェンシュタイン城(Burg Giebichenstein)は付属する製塩所とともに961年マクデブルクのモーリッツ修道院に帰属した。塩泉の側に11世紀モーリッツ教会と旧市場開設地(der Alte Markt)とともに、市壁をめぐらしたと思われる職人集落が生まれた。アイスレーベン(Eisleben)とライプツィヒを結ぶ街道に位置し、都市の初期形態をなしていた。これは≫Das Thal≪あるいは≫Die Halle≪である。その北にはニコライ教会(1116年建造)を擁する商人集落が形成された。12世紀中頃、1151年設立のマリア教会(Marienkirche)を有する新市場開設地(der neue Markt)が4個の街道が交わる地点に設置された。1200年前とされる大周壁の内部に、マクデブルク法を授与された市民共同体(Bürgergemeinde)が成立した。この都市法はライプツィヒが引き継いだ。12世紀以降いくつかの修道院や律院が生まれた[9]。
1694年にFridericiana大学が設立され、クリスティアン・ヴォルフ、クリスティアン・トマジウス等を擁してドイツ啓蒙主義の中心地の一つへと発展した。大学の発展とともに出版業が隆盛を極め、1730年代の見本市カタログによれば、ドイツ語圏最大の書籍出版・販売地ライプツィヒを別として、それに次ぐニュルンベルクと並ぶ出版点数を誇った。この地で、神学者Johann Georg Walch編集のルター全集全24巻(1739-1753)、Allgemeine Welthistorie(仮訳『世界史』;1744-1814年に合計117巻)、クロップシュトックの『救世主』(Der Messias)またAlexander Gottlieb Baumgartenの、カントに影響を与えた『形而上学』(Metaphysica)等が刊行されている[14]。
^E. Ritz (1996). “The history of salt—aspects of interest to the nephrologist”. Nephrology Dialysis Transplant11 (6): 969-975. doi:10.1093/ndt/11.6.969.
^Marcus Conrad : Geschäfte mit Büchern im 18. Jahrhundert – Das Verlagsarchiv Gebauer-Schwetschke in Halle. [日本独文学会東海支部『ドイツ』文学研究』第53号、2021年10月、15-28、特に15-17頁と24頁注(3)および26-28頁注(19)と(23).]