Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

ハーグ事件

ハーグ事件
日本赤軍が占拠したフランス大使館と、その様子を隠れてうかがう警備当局者。
場所 オランダの旗 オランダ デン・ハーグ 在蘭フランス大使館
座標
北緯52度5分10.4秒 東経4度17分53.4秒 / 北緯52.086222度 東経4.298167度 / 52.086222; 4.298167座標: 北緯52度5分10.4秒 東経4度17分53.4秒 / 北緯52.086222度 東経4.298167度 / 52.086222; 4.298167
日付 1974年昭和49年)9月14日 - 9月18日 (日本標準時)
概要 人質立てこもり事件
武器 拳銃手榴弾
負傷者 3人(警察官2人、日本赤軍1人)
犯人 日本赤軍奥平純三和光晴生西川純
対処 日本赤軍の要求受け入れ(要求された身代金は減額)
テンプレートを表示

ハーグ事件(ハーグじけん)とは、1974年9月14日(現地時間、9月13日)にオランダデン・ハーグで発生した、日本赤軍によるフランス大使館立て籠もり・人質事件。日本赤軍最高幹部の重信房子も関与していたとされ、犯行グループは当局に要求を呑ませてシリアに逃亡した。

概要

以下、特に断りがない場合日時は日本時間。

1974年7月26日、日本赤軍の山田義昭パリ=オルリー空港で「偽造米ドル所持」「偽造旅券行使」の容疑で逮捕された。9月はじめ、日本赤軍は勾留中の山田の奪還を図り、構成員の奥平純三和光晴生西川純の3人に対し、ハーグ所在の在蘭フランス大使館を襲撃して仏当局と人質にした大使らと山田を交換する交渉を行うよう指令した[1]

9月10日、3人はスイスチューリッヒで合流し、鉄道でオランダに入国した[1]

9月14日午前0時20分、3人はフランス大使館に拳銃手榴弾で武装して侵入、大使ら11人を大使室に監禁した[1]

人質を取って大使室に立て籠もった和光らは、「フルヤ」の偽名を使っていた山田の引き渡しに加えて、脱出用の航空機及び「慰謝料」100万米ドルを要求した。この間に人質救出を試みたオランダ警察と撃ち合いになり、警察官2名が撃たれて重傷を負い、奥平も右上腕部を負傷した[1][2]

9月15日(現地時間)にはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のテロリストであるカルロスがこれに呼応してパリで爆弾テロを起こし(2人が死亡、34人が負傷)、フランス当局にプレッシャーをかけた[3]

9月17日、交渉の結果、オランダ政府が30万ドルを払い、フランス政府は要求を呑んで山田を釈放し、国外逃亡用のボーイング707エールフランス機、機体記号:F-BHSJ)も用意された[2]。また、事件の余波でオランダは、9月17日ユリアナ女王によるパレードを簡素化することになった。

9月18日午前6時7分、山田と金を受け取った3人は人質を全員解放し、同午前6時26分にスキポール空港を飛び立った[1][2]

その後犯人グループを載せたB707は南イエメンに向かい、同午後2時5分にアデンに降りたが南イエメン政府に投降を拒否され、燃料の補給を受けて再度出発した。同午後10時にシリアダマスカス空港に着陸し、戦利品の30万ドルを含む携行物等の全放棄を受け入れてシリア当局へ投降した[1][4]

ギャラリー

犯人らのその後

西川は翌1975年3月5日にストックホルムで逮捕、日本に強制送還された。和光・奥平・山田は同年8月のクアラルンプール事件に参加し、西川を奪還した。奥平も1976年9月23日にヨルダンで拘束、日本に強制送還されたが、西川が参加した1977年9月のダッカ日航機ハイジャック事件超法規的措置により釈放されている[1]。以降国際手配を受けながらも国外逃亡を続けていたが、現在までに奥平を除き逮捕・現地での追放・投降などにより収監されている。

判決

その後、実行犯の西川と和光に無期懲役判決が下った。武器調達などを行って実行犯と共謀したとして日本赤軍最高幹部である重信にも懲役20年の判決が下り服役したが、2022年5月28日に刑期満了で出所している[5]。なお重信は事件に対する自らの関与を否定し、PFLPの関与があったことを主張していた。

また、吉村和江が共犯として逮捕されたが、嫌疑不十分で不起訴となった。

その他

人質となったフランス大使であるジャック・スナールフランス語版は、仏自動車大手・ルノーの会長ジャン・ドミニク・スナールの父である[6]

関連作品

映画

脚注

  1. ^ a b c d e f g 立花書房, ed (2009). 新 警備用語辞典. 立花書房. pp. 351-352 
  2. ^ a b c NTR. “Gijzeling Franse ambassade” (オランダ語). Andere Tijden. 2018年12月11日閲覧。
  3. ^ France-Presse, Agence (2017年3月12日). “Carlos the Jackal to face trial in France over 1974 bombing” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077. http://www.theguardian.com/world/2017/mar/12/carlos-the-jackal-to-face-trial-in-france-over-1974-bombing 2018年12月11日閲覧。 
  4. ^ Press, The Associated (1974年9月19日). “Terrorists Land,@relinquish Money” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/1974/09/19/archives/terrorists-land-relinouish-money-four-japanese-fly-to-syria-and.html 2018年12月11日閲覧。 
  5. ^ “日本赤軍、重信元幹部が出所 「闘いで被害与えた」と謝罪―治療への専念表明・東京”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2022年5月28日). https://web.archive.org/web/20220527232121/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052800144&g=soc 2022年5月30日閲覧。 
  6. ^ ルノー新会長・スナール氏に「日本赤軍」との因縁”. NEWSポストセブン (2019年2月19日). 2020年8月14日閲覧。

関連項目

Kembali kehalaman sebelumnya