ベーブ・ハーマン
ベーブ・ハーマン(Floyd Caves "Babe" Herman、1903年6月26日 - 1987年11月27日)は、主に1930年代に活躍したアメリカ合衆国のプロ野球選手。ポジションは右翼手。ニューヨーク州・バッファロー生まれ。左投げ左打ち。主に1920年から1930年代にブルックリン・ドジャーズ(現ロサンゼルス・ドジャーズ)で活躍した。 通算打率.324、3度のサイクル安打を記録した強打者だったが、守備や走塁でとんでもないボーンヘッドもし、そのことでもブルックリンのファンから親しまれた選手である。 来歴・人物球歴ハーマンは1922年、18歳の時には既にデトロイト・タイガース配下のマイナーリーグに所属し、春のキャンプではタイ・カッブの代打を務めたこともあった。しかしその後トレードに出され、1926年にブルックリン・ドジャーズからメジャーリーグに登場するまで、5年間で6つのマイナーリーグの球団を渡り歩いた。ハーマンは1925年にブルックリンと契約したが、当時のスカウトは「守っている時の彼はある意味滑稽だったが、ある試合で6安打を打ったのを見て、契約することを決めた」と証言している。 ハーマンは1926年にブルックリンのルーキーとしてデビューし、最初は一塁を守っていた。1年目から打率.319、81打点と打つ方で活躍したが、2年目には21個ものエラーを記録し、外野手にコンバートされることになる。3年目には再びリーグで5位となる打率.340と91打点の成績を残したが、やはり守備でのエラーの数もリーグ最多だった。 次の1929年と1930年にハーマンは打ちまくり、1929年の成績は打率.381と217安打、105得点、113打点にもなり、同年のMVP候補となる。また1930年には241安打と130打点をあげ、打率も4割に迫る.393という成績を残したが、両年とも打率はリーグ2位だった。1929年はレフティ・オドールが打率.398を記録し、また1930年はビル・テリーが打率4割超えを達成(.401)した年だった。 その後1932年の開幕直前に、ハーマンはシンシナティ・レッズにトレードされ、翌年から2年間はシカゴ・カブスに在籍した。カブス在籍時の1933年6月20日には1試合3本塁打という記録を作り、また同じ年の9月30日には、自身3度目となるサイクル安打を記録するなど、その打棒は相変わらずだったが、守りでのエラーの多さからか、その後もハーマンは毎年のようにチームを変わり、1937年にはマイナーに降格してしまう。降格後ハーマンはしばらくパシフィック・コーストリーグなどでプレーをしていたが、第二次世界大戦が佳境となった1945年に、42歳でブルックリンに戻ってくることになる。ブルックリンに復帰した最初の打席で、ハーマンは観衆から大きな拍手で迎えられた。声援に応えたハーマンはこの打席ヒットを放ったが、ベースを廻ろうとして一塁ベースにつまづいてしまった。 同年ハーマンは37試合に出場し、.265の打率を残して選手を引退した。1951年にピッツバーグ・パイレーツのコーチを1年間つとめ、1987年にカリフォルニア州で亡くなった。 "エベッツ・フィールドの首なし騎手"打撃面で様々な活躍をしたハーマンだったが、守備や走塁面では考えられないようなボーンヘッドがいくつもあり、チームメイトだったダジー・ヴァンスが、「エベッツ・フィールドの首なし騎手」("the Headless Horseman of Ebbets Field")とあだ名をつけるほどだった。 1926年8月15日のエベッツ・フィールドでのブレーブスとの試合でのこと、ブルックリンは満塁のチャンスをつかみ、ルーキーだったハーマンはライトに強烈なライナーを放った。しかし、当たりが良すぎて打球がフェンスに跳ね返った後、すぐに内野に帰ってきたために、三塁走者は生還したものの、足の速くなかった二塁のダジー・ヴァンスは本塁へ進むことを一旦躊躇してしまう。ヴァンスは三塁-本塁間に挟まれ三塁に戻ったが、そこには既に一塁にいたチック・フィースターが進塁してきていた。 ところが、そこへ二塁を回った打者のハーマンがすべりこんで来た。ブレーブスの三塁手エディ・テイラーは、三塁ベース上に立っていた三人の走者に次々にタッチし、結局前の走者を追い越す形になったハーマンと、一塁から進んできたフィースターがアウトになった。ハーマンは打った瞬間に「三塁打になる」と思いこみ、前の塁の状況をよく見ていなかったための珍事だった。この試合の後ドジャーズのファンの間では、『ドジャーズが走者を三人出してるぞ!』『おっ、どの塁だ?』というジョークが語られた。 ハーマンの走塁でのボーンヘッドはこれにとどまらず、1930年シーズンには、『1シーズンの間に、2度打者から追い越された』という珍記録を残している。同年5月30日のゲームで、一塁にいたハーマンは、次の打者デル・ビソネットのホームランの打球の行方をじっと見つめたまま、打者ビソネットから追い越されてしまった。同年9月14日にはやはり同じ場面で、ホームランを打った打者グレン・ライトに追い越されている。 1931年9月20日のゲームでは、当時セントルイス・カージナルス監督だったギャビー・ストリートが、選手の怪我のため代役で捕手を勤めていた。当時48歳で、1912年を最後に20年近くゲームに出ていなかったストリートを相手に、ハーマンは盗塁を試みて失敗してしまっている。 通算成績打撃成績※数字の後の"*"は、記録不明箇所があることを示す。
獲得タイトル・記録
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