マルセロ・バルボア
マルセロ・バルボア(Marcelo Balboa, 1967年8月8日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身の元サッカー選手であり、元アメリカ代表、現役時代のポジションはセンターバック。 1990年代のアメリカサッカー界を代表するディフェンダーであり、アメリカ代表として3度のワールドカップ本戦23名に名を連ね、代表の試合ではキャプテンも務めたこともあった。アメリカサッカー殿堂の一員にも選ばれている。 引退後は、ESPN、ABCなどのコメンテーターなどの仕事に就き、現在はコロラド州のモナーク高校でサッカーを指導している。[1] 来歴高校・大学アルゼンチンからの移民家系であるバルボアは、カリフォルニア州のセリトスで育った。ユース時代の成績としては、1986年のマクガイアカップ(U-19の国内大会)で優勝したことである。[2] バルボアの父、ルイスはかつて、アルゼンチンでプロサッカー選手をしており、北米サッカーリーグのシカゴ・マスタングスでプレーする傍ら、彼を指導していた。 1985年にセリトス高校を卒業し、それからの2年間はコミュニティカレッジのセリトスカレッジに籍を置き、アメリカンフットボールのプレースキッカーをもこなし、サッカーではカリフォルニア南海岸地域の選抜選手に2度選ばれている、二足のわらじを履く学生生活だった。セリトスカレッジではバルボアの背番号「3」は永久欠番となっている。[3] 1988年、サンディエゴ州立大学へ編入し、同年には同大学のファーストチーム、翌年には全米のセカンドチームに選ばれ、活躍した。.[4] プロキャリア1987年から1989年まで、バルボアは大学のオフシーズンを利用して、ウエスタンサッカーリーグのプロクラブであるサンディエゴ・ノーマッドにアマチュア選手として契約を交わした。1988年にはリーグMVPを受賞している。[5] その後、1990年にアメリカンプロサッカーリーグ(APSL)のサンフランシスコベイ・ブラックホークスでプロ選手としてのキャリアをスタートさせ[5]、1992年にコロラド・フォクセスに移籍した。[6] 1995年から翌年にかけては、メキシコのクルブ・レオンで活躍し、1996年、メジャーリーグサッカーのコロラド・ラピッズと契約した。バルボアはラピッズでの6シーズンに渡り、監督が変わっても、常にリーダーシップを発揮し続けた。その間、1990年、1994年、1998年の3度のワールドカップにもアメリカ代表として本戦に参加した。2002年、メトロスターズにトレードとなったが、怪我もあり、出場はわずかに5分に留まり、そのシーズン限りで引退した。 アメリカでのキャリアの中で、2005年にはベストイレブンに選ばれている。 彼の選手時代を象徴するプレーとして、1994年の自国開催のワールドカップでコロンビアに勝利した試合でのバイシクルシュートが挙げられる。また、ラピッズ時代の2000年、コロンバス・クルーと対戦した時のバイシクルシュートは、同シーズンのMLSベストゴールになった。 代表バルボアはディフェンスの要として1990年、1994年のワールドカップでプレーした。初の代表試合は1988年のグアテマラ戦。代表での実績を評価され、1992年と1994年のUSサッカー・アスリート・オブ・ザ・イヤーに選ばれている。1995年、バルボアはアメリカの代表選手として100キャップという壁を越える最初の選手になった。 引退後クラブフロント2004年のシーズン以降、彼の古巣である、コロラド・ラピッズの理事に着任した。 ブロードキャスター2003年、ABCのカバーするMLSオールスターゲームと、MLSカップのピッチサイドリポーターとしてデビューし、翌年には、ABCとESPNTVのレギュラーアナウンサーとなり、アメリカ代表戦を実況した。近年では、2006年のワールドカップで全米ナンバーワンチームとして、野球中継で名高いデーブ・オブライエンと組んで仕事をした。[7] 2007年にはラジオにも進出し、デンバーに局を置く、マイル・ハイ・スポーツ・ラジオの「From The Pitch」をスタートさせた。[8] 翌年、2008年の北京オリンピックのサッカー中継を担当したNBCスポーツの解説者を引き受けた。[9] 彼はまた、スペイン語放送局であるテレフツラの番組「Contacto Deportivo」のゲスト解説者を現在も続けている。 2014年のブラジルワールドカップでもスペイン語局、ウニビシオンでアメリカ代表戦のコメンテーターを務めた。 コーチ2012年より、モナーク高校がバルボアを男子サッカーチームの監督として招聘している。[10] 代表歴出場大会試合数
脚注
外部リンク
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