ラリー・シャープ
ラリー・シャープ("Pretty Boy" Larry Sharpe、本名:Lawrence Weil、1950年6月26日 - 2017年4月10日[1])は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニュージャージー州ポールズボロ出身。 現役時代はヒールの中堅としてWWFなどで活動[2]、引退後はプロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー」の主宰者となって数々の選手を育成した[1]。 来歴選手時代学生時代にレスリングの選手として活動した後、ゴリラ・モンスーンのトレーニングを受け、1974年にWWWFエリアでデビュー[1]。以降、フロリダ、テキサス、ミッドアトランティックなどNWAの各テリトリーを転戦。1976年4月には全日本プロレスの第4回チャンピオン・カーニバルに初来日、総当たりリーグ戦ではジャイアント馬場やジャンボ鶴田、アブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦したが、キャリア不足もあって全敗の最下位に終わった[3]。 その後、カナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングにてリッパー・コリンズのパートナーとなり、金髪の悪役タッグチーム、ボディシャス・ブロンズ(The Bodacious Blondes)を結成。1976年9月24日、エディ&ジェリー・モローの兄弟チームから同地区認定のインターナショナル・タッグ王座を奪取している[4]。翌1977年1月にはコリンズと共に国際プロレスに来日したが、外国人サイドのエース格としてリップ・タイラーとエディ・サリバンのコンビが同時来日していたため、当時グレート草津とマイティ井上が保持していたIWA世界タッグ王座への挑戦は見送られた[5]。 1977年下期よりジャック・エバンス(AAAなどでの活動で知られる同名選手とは別人)を新パートナーにWWFに登場。9月26日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、WWFヘビー級王座獲得前のボブ・バックランドとシングルマッチを行っている[6]。同年12月、エバンスと共にハリウッド・ブロンズ(The Hollywood Blondes)のチーム名でプエルトリコに遠征し、カルロス・コロン&ビクター・ジョビカを破りWWC北米タッグ王座を獲得[7]。1978年末にエバンスとのコンビを解消してシングルプレイヤーとなり、同年11月にハワイでドン・ムラコからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取[8]。1979年8月には全日本プロレスに再来日、ミル・マスカラスともシングルマッチで対戦している[9]。 以降もWWFを主戦場に、1980年8月9日にニューヨークのシェイ・スタジアムで行われたビッグイベント "Showdown at Shea" において、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦(試合はWWFマーシャルアーツ・ヘビー級王座戦として行われた)[10][11]。直後に新日本プロレスに初参戦し、外国人サイドの2番手となってスタン・ハンセンのパートナーを務め、9月22日の米子大会では坂口征二の北米ヘビー級王座に挑戦した[12]。WWFには1982年まで中堅ヒールとして出場を続け[13][14]、1981年10月4日には地元のニュージャージーにてブルドッグ・ブラワーと組み、リック・マーテル&トニー・ガレアのWWFタッグ王座に挑戦している[15]。 モンスター・ファクトリーシャープは選手としてリングに上がる一方、ケビン・フォン・エリック、トニー・アトラス、キングコング・バンディらのトレーナーも務めていた。その実績を背景に、同郷のバディ・ロジャースの協力のもと、1983年に地元ニュージャージーにてプロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー(Monster Factory)」を開設[1]。ユニークな人材を次々と発掘・育成してプロレス界に送り込むことになる。その第1号となったクラッシャー・ユーコフことバンバン・ビガロの出現は、モンスター・ファクトリーの名を世界中に知らしめた[1]。シャープはビガロのマネージャーも担当し、1987年にはビガロに同行して新日本プロレスへ久々に来日。ディック・マードックとの対立アングルも組まれ、ビガロと組んでタッグマッチにも出場した[16]。 その後もパートタイムで東部地区のインディー団体に出場していたが、1991年に現役を引退してスクール運営に専念。以来、晩年まで数多くのスターを輩出した[1]。プロレスラーとしてのキャリアはB級のポジションで終わったものの、長期間に渡ってWWFで中堅を務めた試合運びの巧さやマイクパフォーマンスのスキルを有する名伯楽として、ビンス・マクマホンやブレット・ハートからも信頼を寄せられていた[17]。 育成選手
得意技獲得タイトル
脚注
外部リンク |