『リンゴズ・ロートグラヴィア 』(原題: Ringo's Rotogravure )は、リンゴ・スター が1976年 9月に発表した5枚目のスタジオ・アルバムである。『リンゴ 』以来、元ビートルズ のメンバー4人全員が関わった2枚目のアルバムとなった[ 注釈 1] 。
解説
制作に至る経緯
1976年1月、スターがビートルズ時代から長年在籍してきたEMI /キャピトル とのレコーディング契約が終了した。3月、彼はイギリスでは前年に自ら設立したリング・オー・レコード の配給元であるポリドール・レコード 、アメリカではアトランティック・レコード と契約した[ 注釈 2] 。
スターは当初、アルバム『リンゴ 』『グッドナイト・ウィーン 』と同様にプロデュースをリチャード・ペリー に依頼するつもりだったが、せっかく移籍したのだから別のプロデューサーを試してみることにした。彼はアトランティック・レコードから、当時副社長でビージーズ のプロデュースで再び脚光を浴びていた[ 注釈 3] 社内プロデューサーのアリフ・マーディン を起用するように提案されており、マーディンとロンドンで面会して一緒に仕事をすることに決めた。
レコーディング
スターはこれまでと同様、友人たちに曲を書いてレコーディングに参加してもらうという実績ある方法を採用した。今回は元ビートルズ のジョン・レノン 、ポール・マッカートニー 、ジョージ・ハリスン 、旧友のハリー・ニルソン 、ピーター・フランプトン 、メリッサ・マンチェスター 、ドクター・ジョン に加えて、エリック・クラプトン も参加した。
セッションは4月、友人たちが多くいるロサンゼルス にあるザ・サンセット・スタジオ で始まり、最終的には6月12日にチェロキー・スタジオ に移った。当時「主夫」生活に入っていたレノン[ 注釈 4] は快く「クッキン」を書き下ろし、レコーディングではスターの要望でピアノを演奏した。マッカートニーはウイングス の全米ツアー の最中、スターの当時の恋人ナンシー・アンドリュース を称える「ピュア・ゴールド」を作曲し、ロサンゼルス公演のために訪れていた6月19日、レコーディングに参加した。ハリスンはアルバム『33 1/3 』の制作に追われて、スターに新曲を提供することもレコーディングに参加することもできなかった。そこでスターはハリスンの楽曲で以前から好きだった「When Every Song Is Sung 」を録音する許可を取り付けた[ 注釈 5] 。「アイル・スティル・ラヴ・ユー」と改題された同曲はハリスン本人を含む数々のアーティストが完成できなかった難曲であり、スターのレコーディングも難航し、最終的にマーディンがシンセサイザー を使ってようやく完成させた[ 注釈 6] 。クラプトンは「これが歌ってものさ」を提供し、ギターを演奏した。
「ラス・ブリサス」は、スターが1974年に『グッドナイト・ウィーン 』のプロモーションのためにメキシコ を訪れた際、アカプルコ で滞在したホテル[ 11] の名前「Las Brisas」が「そよ風」という意味であることを知ったアンドリュースが綴った詩を基に作った曲であった[ 12] 。スターはロサンゼルス中のメキシコ料理店を回ってレコーディングに相応しいマリアッチ ・バンドを探し、ペドロ・レイが率いるマリアッチ・ロス・ガレロス[ 注釈 7] を見つけ起用した。「レディ・ゲイ」は、イギリスのシンガーソングライター 、クリフォード・T・ウォード が1975年に発表したアルバム『No More Rock 'N' Roll』[ 16] に収録されていた「Birmingham」の題名と歌詞の一部を変えたものである。題名は1973年に全英8位を記録したウォードのヒット曲「Gaye」から取られている。またフランプトンがギター演奏をしている「ロックは恋の特効薬 」は、当時リング・オーに所属していたオーストラリア のシンガーソングライター、カール・グロスマン の曲である。このほか、スターがルル の弟ビリー・ローリーと共作した「Where Are You Going」や、ニルソンと共作した「Party」もレコーディングされたが、アルバムに収録されることはなかった。
リリース
契約時には6月にリリースされる予定であったが、レコーディングが長引いたため、1976年9月17日にイギリスで、27日にアメリカで発売された。タイトルの「ロートグラヴィア」はグラビア印刷 のことで、スターがたまたまテレビで見た1948年のミュージカル映画『イースター・パレード 』の主題歌 の歌詞「You’ll find that you’re in the rotogravure」に触発されたものであった。
アメリカでは先行シングルとして「ロックは恋の特効薬」が9月20日にリリースされ、ビルボードホット100 で9週間チャートインしたが、最高26位を記録するにとどまった[ 23] 。アルバムも期待に反し、ビルボード200 で9週間チャートインしたが、最高28位(3週連続)にとどまった[ 25] 。イギリスではさらにアルバムへの反応が悪く、発売後1か月たった10月15日にリリースされたシングルと共にチャート・インには至らなかった。
スターは、デンマーク、フランス、イタリアなどでもアルバムのプロモーション活動を積極的に行い、インタビューに応じた。オランダではテレビ番組『Voor De Vuist Weg』に出演した[ 28] 。10月17日にはソロになって初めて来日し、21日にNHK の『ニュースセンター9時 』、28日にフジテレビ の『スター千一夜 』に出演した[ 29] [ 注釈 8] 。
続くシングルは挽回を図るため、スターはこれまで成功を収めてきたオールディーズ のカバー曲を使う手法[ 注釈 9] を用いることにし、ブルース・チャンネル の1961年の全米1位のヒット曲「ヘイ!ベイビー 」を選んだ。アメリカでは11月22日にリリースされたが、わずか3週間しかチャート・インできず、最高74位で失速した[ 31] 。イギリスでは11月26日に発売されたが、前作同様チャート・インには至らなかった[ 注釈 10] 。
1992年8月16日、『リンゴズ・ロートグラヴィア』はアトランティックから『ウィングズ〜リンゴ IV 』と共にアメリカでCDとして再発された[ 注釈 11] 。
アートワーク
アルバムのアート・ディレクションはジョン・コッシュ が担当した。ジャケット写真は、ハリウッド・アンド・ヴァイン にあるデイビッド・アレキサンダー[ 注釈 12] のスタジオで撮影された。スターが持っている虫眼鏡は、アレキサンダーが照明の調整をしている間に引き出しの中から見つけたものであった。スターの目にはロン・ラーソン[ 注釈 13] によって色が加えられた。
裏ジャケット写真は、ビートルズ写真家として有名だったトミー・ハンリー[ 注釈 14] が、当時閉鎖され、扉がビートルズ・ファンの落書きで埋め尽くされていた、アップル・コアのオフィスの入り口を撮影したものであった。なお、アルバムの初回出荷分には小さなプラスチック製の虫眼鏡が同梱されており[ 37] 、購入者は裏表紙に描かれた落書きを読むことができた。
なお、見開きのスナップ写真はマーク・ハナウアー[ 注釈 15] が、インナースリーブの写真はアレキサンダーが担当した。
収録曲
オリジナル・アナログ・LP
1992年再発盤
CD # タイトル 作詞・作曲 時間 1. 「ロックは恋の特効薬」(A Dose Of Rock'n Roll) カール・グロスマン 3:24 2. 「ヘイ・ベイビー」(Hey! Baby) マーガレット・コブ、ブルース・チャンネル 3:11 3. 「ピュア・ゴールド」(Pure Gold) ポール・マッカートニー 3:14 4. 「クライン」(Cryin') ヴィニ・ポンシア、リチャード・スターキー 3:18 5. 「ユー・ドント・ノウ・ミー・アット・オール」(You Don't Know Me At All) デーブ・ジョーダン 3:16 6. 「クッキン」(Cookin' (In The Kitchen Of Love)) ジョン・レノン 3:41 7. 「アイル・スティル・ラヴ・ユー」(I'll Still Love You) ジョージ・ハリスン 2:57 8. 「これが歌ってものさ」(This Be Called A Song) エリック・クラプトン 3:14 9. 「ラス・ブリサス」(Las Brisas) ナンシー・アンドリュース、リチャード・スターキー 3:33 10. 「レディ・ゲイ」(Lady Gaye) ヴィニ・ポンシア、リチャード・スターキー、クリフォード・T・ウォード 2:57 11. 「スプーキー・ウィアードネス」(Spooky Weirdness) 1:26 合計時間:
34:11
参加ミュージシャン
※トラック・ナンバーはCD盤に準拠。
リンゴ・スター – ボーカル 、ドラムス 、マラカス (#9)
ジム・ケルトナー – ドラムス
クラウス・フォアマン – ベース (#1,3,7,8,10)
コッカー・ロ・プレスティ[ 注釈 19] – ベース(#2,4,5)
ウィル・リー – ベース(#6)
ピーター・フランプトン – ギター (#1)
ロン・ヴァン・イートン – ギター(#2,3,4,5,7,8)
ジェシ・エド・デイヴィス – ギター(#1,10)
ダニー・コーチマー – ギター(#1,6,10)
エリック・クラプトン – ギター(#8)
スニーキー・ピート – スティール・ギター (#4)
ドクター・ジョン – キーボード (#1,10)、オルガン (#6)、ギター(#6)
ジョン・ジャーヴィス – キーボード(#2,3,5)、ピアノ(#4)
ジェーン・ゲッツ – キーボード(#3)、ピアノ(#7,8)
アリフ・マーディン – エレクトリックピアノ (#4)、シンセサイザー (#7)
ジョン・レノン – ピアノ (#6)
キング・エリッソン[ 注釈 20] – パーカッション (#6)
ジョージ・デヴェンス – コンガ (#3)、マリンバ (#10)
マリアッチ・ロス・ガレロス・デ・ペドロ・レイ – マリアッチ 演奏、バッキング・ボーカル(#9)
ランディ・ブレッカー – トランペット (#1,2)
アラン・ルービン – トランペット(#1,2)
マイケル・ブレッカー – テナー・サックス (#1,2,10)
ジョージ・ヤング[ 注釈 21] – テナー・サックス(#1,2)
ルー・マリーニ – テナー・サックス(#10)
ルイス・デル・ガット[ 注釈 22] – バリトン・サックス(#1,10)
ドゥイッチ・ヘルマー – バッキング・ボーカル(#1)
ヴィニ・ポンシア – バッキング・ボーカル(#1,3,8,9)
メリサ・マンチェスター – バッキング・ボーカル(#1,6,8)
ジョー・ビーン – バッキング・ボーカル(#1)
マッド・モーリーズ – バッキング・ボーカル(#2)、手拍子(#2)
ポール・マッカートニー – バッキング・ボーカル(#3)
リンダ・マッカートニー – バッキング・ボーカル(#3)
ハリー・ニルソン – バッキング・ボーカル(#10)
デビッド・ラスリー – バッキング・ボーカル(#10)
チャート
週間チャート
脚注
注釈
^ 1981年にリリースされた『バラの香りを 』も4人全員が関わるはずだったが、1980年にレノンが亡くなったため、本作が最後のプロジェクトとなった。
^ 5年以内に7枚のアルバムをリリースする契約だった。前年12月、アメリカのABCレコード がスターと500万ドル相当の5年間のレコーディング契約を結ぶと報道されていた。
^ マーディンは当時、アトランティック傘下のRSOレコード に所属していたビージーズをディスコ・サウンド 路線に転向させ、大成功を収めていた。
^ 前年10月に息子ショーン が誕生すると、レノンは育児のために音楽活動から離れていた。
^ スターは以前、シラ・ブラック やレオン・ラッセル 夫妻がこの曲をレコーディングした際にセッションに参加していた。
^ マーディンによって行われた、いかにも「お涙頂戴」的な仕上がりは、ハリスンが到底満足できるものではなかったため、販売停止を求める訴訟を起こした。結局、法廷外で和解が成立したとされている。
^ ペドロ・レイ(本名ペドロ・エルナンデス)の父が1968年にロサンゼルスで創設したマリアッチ ・グループ。1989年にグラミー賞 を受賞したリンダ・ロンシュタット のアルバム『ソング・オブ・マイ・ファーザー 』にフィーチャーされた3つのグループのうちの1つである[ 14] 。
^ アンドリュースを伴って10年ぶりに来日したスターは10月31日に離日するまでの間、新聞や雑誌のインタビューに応じたり、レナウン の「シンプル・ライフ」のCF撮影を行い、合間に京都観光などを楽しんだ。
^ 『リンゴ』ではジョニー・バーネット の「ユア・シックスティーン 」、『グッドナイト・ウィーン』では「オンリー・ユー 」をシングル・カットし、前者は全米1位・全英4位、後者も全米6位・全英28位とチャートをにぎわせ、アルバムの売り上げにも貢献した。
^ この後、アメリカでは約5年間、イギリスでは15年以上にわたって、スターのシングルがチャート・インすることはなかった。
^ 当時旧譜のリイッシュー時には、販売促進のためにボーナス・トラックを加えることが一般的になっていたが、なぜか加えられなかった。
^ エンターテインメント業界の商業写真家。イーグルス のアルバム『ホテル・カリフォルニア 』のジャケット写真やアーノルド・シュワルツェネッガー 主演映画ターミネーター のポスターなどで有名ある[ 33] 。
^ アートディレクター兼デザイナー[ 34] 。1970年代中盤から80年代にかけてコッシュと共同でアルバムのジャケット・デザインを手掛けた[ 35] 。
^ ハンリーはロンドン生まれの写真家で、63年9月下旬にビートルズと初めて出会って以来、親交を深めていた[ 36] 。
^ カリフォルニア州サンタモニカを拠点に活動する米国の写真家。映画、スポーツ、アート関連の書籍、国内外の雑誌、出版物、演劇など、マークが撮影した写真は多数ある[ 38] 。
^ テキサス州アービング出身の米国のシンガー・ソングライター。ブルース・チャンネルと多くの曲を共作した[ 39] 。
^ ニュージーランド出身のシンガー・ソングライター。リンジー・ディ・ポール としばしば共演した[ 40] 。
^ アトランティック盤ではクレジットされていたが、ポリドール盤ではシークレット・トラックとなっていた。
^ アメリカのロック、ポップスのベーシスト。本名はジョン・P・ロプレスティ。1970年代にメリッサ・マンチェスターやエルトン・ジョン と活動した[ 41] 。
^ バハマ・ナッソー生まれのパーカッショニスト。本名はエリソン・ポールマン・ジョンソン。モータウン・レコード の創業者ベリー・ゴーディ は自伝の中で、数多くのレコーディングに参加したエリッソンをモータウンの隠れたヒーローと呼んでいる。ジェームズ・ボンドの映画『サンダーボール 』(1965年)にカリプソ・バンドで出演している[ 42] 。
^ アメリカ・フィラデルフィア生まれのサックス奏者、作曲家、プロデューサー。本名はジョージ・アーネスト・オパリスキー・ジュニア。マンハッタン・ジャズ・クインテット のメンバー[ 43] 。
^ 米国のサックス奏者、アレンジャー、作曲家。トニー・ベネット 、グラディス・ナイト 、アレサ・フランクリン 、ベット・ミドラー 、クインシー・ジョーンズ 、ポール・サイモン 、ビリー・ジョエル などのレコーディングに参加している[ 44] 。
出典
参考文献
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