1968年の「ミセス・ロビンソン (Mrs. Robinson)」(最優秀レコード賞等、計2部門)、1970年の『明日に架ける橋 (Bridge Over Troubled Water)』(最優秀アルバム賞等、計5部門)、1975年の『時の流れに (Still Crazy After All These Years)』(最優秀アルバム賞等、計2部門)、1987年の『グレイスランド (Graceland)』(最優秀アルバム賞等、計2部門)など、史上最多となる13のグラミー賞を受賞。2007年には、新設されたガーシュウィン賞の最初の受賞者となった。
ハンガリー系ユダヤ人の家庭に生まれたサイモンは1955年、小学校時代からの友人アート・ガーファンクルと共にデュオグループ「トム&ジェリー」を結成し、1958年に「ヘイ・スクールガール(Hey Schoolgirl)」(最高位54位)をヒットさせる。高校卒業後、クイーンズカレッジでは英文学を専攻する。1964年には、サイモン&ガーファンクルとして『水曜の朝、午前3時(Wednesday Morning, 3 A.M)』をリリース。しかし、このアルバムはフォーク・ブームの沈静期の影響もあり、注目を集めることはなく、ポール・サイモンは失意の内に1人ロンドンでの音楽活動を始める。1965年には、初のソロ・アルバム『ポール・サイモン・ソングブック(The Paul Simon Song Book)』を録音するが、ここには、後にサイモン&ガーファンクルのレパートリーとなった曲も、多数含まれている。
1969年、ガーファンクルは、アルバム『明日に架ける橋』の制作中、マイク・ニコルズ監督の『キャッチ=22』の撮影と重なり、サイモンはひとりで作業をすることが多くなった。ガーファンクルの不在をモチーフとして書かれたのが「ニューヨークの少年(The Only Living Boy in New York)」である。表題曲「明日に架ける橋」は当初ポール・サイモンがギターで作詞作曲したが、アルバムではガーファンクルの(ほぼ)独唱、そしてピアノのアレンジメントとなり、収録された。「コンサートでこの曲に贈られた拍手と賞賛はガーファンクルのものだ」と受け取ったサイモンは、その度に「これは僕がつくった曲なんです」と心で思ったという(サイモンがギター1本で歌った「明日に架ける橋」のデモ・テープは、彼のアルバムに以後収められている)。
1975年10月、アルバム『時の流れに (Still Crazy After All These Years)』を発表。本作はアルバムチャートの1位を獲得。またグラミー賞の最優秀アルバム賞と男性ポップ・ボーカル部門の2部門を受賞した。シングルカットされた「恋人と別れる50の方法」も1位を獲得した。また、75年にはサイモン&ガーファンクルとして「マイ・リトル・タウン」を発表し、ヒットさせた。
このコンサートの成功を受けて、サイモン&ガーファンクルとしてのアルバム制作が始められたが、2人の音楽観の溝は埋まってはおらず、逆にそれを再認識することになる。こうして、1983年に発表した5枚目のソロ・アルバム『ハーツ・アンド・ボーンズ(Hearts and Bones)』は、商業的には失敗した。アルバムの中の「Train in the Distance」は離婚した最初の妻ペギーを歌ったもので、「Hearts and Bones」は2番目の妻キャリー・フィッシャーとのことを歌ったものであり、最後の曲「Late Great Johnny Ace」では、サイモンの少年時代のヒーローJohnny Ace、ジョン・F・ケネディ、そしてジョン・レノンの死を歌っている。
1990年に発表した『リズム・オブ・ザ・セインツ (The Rhythm of the Saints)』は、前作のワールドミュージック路線を継承したもので、ブラジル音楽を取り入れ、再びヒット作となった。同年末には、日本の第41回NHK紅白歌合戦に衛星中継で出演し、「明日に架ける橋」を歌った。1991年には、再びセントラル・パークでフリー・コンサートを開き、75万人を動員するという驚異的な記録を自ら更新。しばらくの沈黙の後、1997年にはブロードウェイ・ミュージカルに進出。「ケープマン (The Capeman)」は短期間の上演となったものの、そのキャストアルバムは批評家の間では高い評価を受ける。2000年に発表した『ユー・アー・ザ・ワン(You're the One)』は、グラミー賞の最優秀アルバムにノミネートされた。
2006年には『サプライズ(Surprise)』を発表。U2などのプロデューサーだったイギリス人アーティスト、ブライアン・イーノを迎え、65歳にしてエレクトロミュージックに取り組んだ。「エブリシング・アバウト・イット・イズ・ア・ラブソング」はドラムンベース、他にブレイクビーツをベースとした楽曲も収録された。米オール・ミュージック・ガイドは、ポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディランなどの同世代のミュージシャンが当時出したアルバムと比較して評価したが、S&G時代や「母と子の絆」[3]以降のオールド・ファンからは敬遠された。音楽評論家からの批判もあった。このアルバムは商業的にはヒットし、ビルボード・アルバムチャートで、全米14位、全英4位を記録。シングルも、「ファーザー・アンド・ドウター (Father and daughter)」が久々のトップ40入りを果たした。
2007年、Library of Congress(アメリカ議会図書館)による、新設のガーシュウィン賞の第1回の受賞者となる。この授賞式には、ガーファンクルやスティービー・ワンダーなども参加し、米PBSにより全米に生中継された。また、ヒップポップ・ミュージシャン、ワイクリフ・ジョンの新曲「ファスト・カー」にゲスト・ボーカリストとして参加。このアルバムは、2007年12月発売予定の「カーニバル2(Carnival2)」に収録された。2009年11月には、『ロックの殿堂(The Rock n Roll Hall of Fame)』の25年記念コンサートに出演。U2、ブルース・スプリングスティーンらと共に、ソロ・アーティスト及びサイモン&ガーファンクルとして、2度に渡って出演、往年のヒット作を披露し、スタンディング・オベーションでの喝采を受けた。
2011年、5年ぶりの新作『ソー・ビューティフル・オア・ソー・ワット(So beautiful or so what)』を発表。アフリカやブラジルで吸収したサウンドに、ブルーグラス、ゴスペルなども組み合わされた自身のキャリアの集大成ともいえる作品で、ローリング・ストーン誌、オール・ミュージック・ガイドなど各メディアは総じて『グレイスランド(Graceland)』以来の傑作と絶賛し、ビルボード・アルバムチャートでも発売と同時に4位を記録した(第1週での4位はキャリア最高)。ヨーロッパでの各チャートでも軒並みトップ10入りを果たし、90年の『リズム・オブ・ザ・セインツ(The Rhythm of the Saints)』以来の大ヒット作となった。
2016年、ソロになって13作目となる『Stranger to Stranger』を発表。前作よりもさらにエクスペリメンタルな楽曲で、エレクトロ音楽で有名なイタリアのClap! Clap!とのコラボレーション、現代音楽家のハリー・パーチによる自作の楽器などを使い、74歳にして、さらに新境地を切り開いた。商業的にも大きな成功を収め、ビルボード・アルバムチャートで自身ソロアーティストとして初めて、発売と同時に3位を記録、全英では、ビヨンセ、ドレイクなど自身より40歳以上若いミュージシャンを抑え、チャートトップに輝いた。また74歳8か月での全英アルバムチャート1位は、男性ミュージシャンとしては、史上最高齢の記録となった。
音楽的特徴
メロディに注目されることが多いが、繊細な比喩と韻を多用した歌詞は、詩人としても高い評価を受けている。ノーベル文学賞受賞者のデレック・ウォルコット(Derek Walcott)は、「グレイスランド」の歌詞 "The Mississippi delta was shining like a national guitar.(ミシシッピー・デルタはナショナル・ギターのように輝いている)" を例として取り上げながら、独特なスタイルをもったサイモンの詩を「Simonesque(サイモン風の)」と呼び、詩人として評価している。