ケニー・ロジャース(Kenny Rogers、1938年8月21日 - 2020年3月20日[1])は、アメリカ合衆国、南部テキサス州ヒューストン出身のポップ・カントリー歌手である。
1970年代から1980年代にかけてのアルバムが100万枚(プラチナム)以上、特に1978年作品『ザ・ギャンブラー』は500万枚以上のセールスを記録した。
テキサス州ヒューストン生まれ。1950年代半ばから歌手活動を始め、いくつかのバンドを転々とした後、1967年にファースト・エディションを結成する。当時のロジャースは時代を反映して長髪にサングラスといういで立ちだった。ケニー・ロジャース&ファースト・エディションとして「ジャスト・ドロップト・イン」が最初の小ヒットとなり、翌年には「町へ行かないで」がヒット作となった[2]。しかし1970年代前半にはヒットに恵まれず、 1976年にバンドを解散しソロ歌手に転向した。1977年以降は「ルシール」「弱虫トミー」「ザ・ギャンブラー」など多数のヒットを放った。1980年、キム・カーンズとのデュエットとして録音した「ドント・フォール・イン・ラブ・ウィズ・ア・ドリーマー」(荒野に消えた恋)がアメリカでヒットした。その年の初め、彼はリンダ・カーターのテレビ音楽特別番組『リンダ・カーター・スペシャル』でリンダ・カーターと「ユー・アンド・ミー」のデュエットを歌った(ロジャースはもともとこの曲をアルバム『愛する二人』用にドティー・ウェストと録音した)。1980年後半には、ロジャースのナンバー1ヒット曲「レイディー」を作曲しプロデュースしたライオネル・リッチーとパートナーシップを結んだ。1980年、ライオネル・リッチーが提供した「レイディー」が、カントリーのみならずポップチャートでも全米1位の大ヒットを記録した[3]。リッチーは、ロジャースの1981年のアルバムのプロデュースを続け、チャートのトップまで上昇し商業的な成功を収めた。当時のヒットには「アイ・ドント・ニード・ユー」(ポップ3位)、「スルー・ザ・イヤーズ」(ポップ13位)、「シェア・ユア・ラヴ・ウィズ・ミー」(ポップ14位)などがある。また、彼の最初のクリスマス・アルバムもリリースされた。ロジャースは、リッチーのトップ5ヒット曲「マイ・ラブ」にバック・ボーカルを提供することで恩返しをした。1982年、ロジャースはアルバム『愛の詩』をリリースした。アルバムのタイトルトラックは、ビルボードホット100で13位に達した。
1983年にはドリー・パートンとデュエットした「アイランド・イン・ザ・ストリーム」も全米1位となった。1985年にはUSAフォー・アフリカに参加した[3]。
1990年代以降は派手なヒットこそないものの安定した活動を続け、また積極的に慈善活動を行なった。本国アメリカでは、1991年よりチキンとスペアリブをメイン料理としたレストラン「ケニー・ロジャース・ロースターズ」の展開と経営にも関わっており、アメリカや東南アジアを始め、世界各国で多数の店舗を運営した。
2020年3月20日、老衰により死去。81歳没[1][3]。
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