リーナス・ベネディクト・トーバルズ (Linus Benedict Torvalds 、1969年 12月28日 - 、 [ˈliːnɵs ˈtuːrvalds] [ヘルプ /ファイル ] )はフィンランド 、ヘルシンキ 出身のアメリカ合衆国 のプログラマ 。Linuxカーネル を開発し、1991年 に一般に公開した。その後も、公式のLinuxカーネルの最終的な調整役(もしくは「優しい終身の独裁者 」)を務める。
アンドリュー・タネンバウム が開発したカーネル とオペレーティングシステム (OS) であるMINIX に刺激を受け、自宅のパーソナルコンピュータ 上で動作可能なUNIX OSの必要性を感じ、自分の趣味の時間と自宅の設備でLinuxカーネルの初期の開発を行った。
半生
1969年 12月28日 、フィンランド の首都ヘルシンキ で生まれた。父親はジャーナリスト のニルス・トーバルズ で母はアンナ。祖父は詩人のオーレ・トーバルズ (英語版 ) 。両親は1960年代 にヘルシンキ大学 の左翼 活動家であり、父親は1970年代 中頃にモスクワ に一年留学している共産主義 者である(後のリーナスの考えに父親が間接的に影響していることを本人は認めている)。
家族はフィンランド人口のおよそ6%のスウェーデン語 を話す少数派(スウェーデン系 )に属しており、リーナスの名はライナス・ポーリング にちなんだものだった。1988年 から1996年 までヘルシンキ大学で学び、Linuxに関する修士論文「Linux: A Portable Operating System(Linux: 移植性の高いオペレーティングシステム)」を書き、計算機科学 の修士号を得た。
1990年、ヘルシンキ大学在学中に読んだアンドリュー・S・タネンバウムの『オペレーティングシステム‐設計と理論およびMINIXによる実装』を「人生を変えた本」と述べている。
アメリカ ・カリフォルニア州 サンノゼ に長年住んだあと、2004年6月にオレゴン州 ビーバートン の家を購入し、この地域の学校に娘たちを通学させている。家族は、空手 で6度のフィンランド選手権優勝経験を持つ妻トーベと、3人の娘・パトリシア・ミランダ、ダニエラ・ヨランダ、セレスタ・アマンダである。
1997年 2月から2003年 6月までトランスメタ 社で働いたあと、オレゴン州ビーバートンにあるOSDL に移籍した。その後OSDLはFSG と合併し、Linux Foundation となりそのまま在籍している。
シリコンバレーではスティーブ・ジョブス やビル・ジョイ に会っている。
リーナスの個人的なマスコットとして、Tux と名づけられたペンギン がいて、LinuxコミュニティからはLinuxのマスコットとして広く受け入れられている。
ソフトウェア開発に関する思想
リーナスの活動にインスパイアされたエリック・S・レイモンド がその論文「伽藍とバザール 」で述べ著名となったリーナスの法則 に「Given enough eyeballs, all bugs are shallow. (目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない)」というものがある。深刻なバグというのは見つけづらいもののことを言うが、深刻なバグを探すのに大勢の人がいれば、どんなバグも深刻なものとはならないだろうという希望を述べたものであり、ほぼ経験則として受け入れられている。レイモンドとリーナスは、この信念を基盤にしたオープンソース 思想を共有している。
他のオープンソース普及活動家たちとは違って、リーナスは比較的控えめな姿勢を保っているように見られているが[要出典 ] 、度々マイクロソフト のWindows やApple のmacOS のような競合するオペレーティングシステム (OS) についての辛辣な批判をしてきた[ 2] [ 3] 。一方、GNUプロジェクト とは度々対立し、特にトランスメタでの独占的ソフトウェアの開発への従事や、BitKeeper の利用と擁護は、GNU側から批判の的とされている。しかし、マイクロソフトやSCO のような独占的ソフトウェア開発企業による反Linuxを意図したFUD に対しては強く反論する声明を発表してきた。また2004年にはサン・マイクロシステムズ が自社開発のSolaris OSをオープンソースにするという発表について「誰もSolarisの出来損ないみたいなOSで遊びたいとは思わないと思うよ。明らかなことは、彼らはコミュニティの立ち上げには相当な時間がかかるだろうということだと思うよ」と述べた。更に続けてデバイスドライバ サポートの問題が足を引っ張るだろうという点を指摘し、CNET ニュースのインタビューに答えて「Linuxでドライバが足りないとかなんとかいっているようなら、Solaris/x86を見てみるといいよ」と述べるなど、競合している他のOSへの批判には容赦がない。
他の例では、マイクロソフトの上級副社長クレイグ・マンディ がオープンソースソフトウェア には新規性はなく、知的財産権 を破壊するものだと批判したのに対する反論として送ったEメールの中で次のように述べた。「マンディはアイザック・ニュートン 卿について聞いたことがあるのかねえ。彼は古典力学 の基礎の構築、りんごの木の話で有名な万有引力の法則 を発見した点で著名であるだけでなく、彼がその業績に対して先人への感謝を示したやり方でも有名なんだ。『私がはるかかなたを見渡すことができたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩に乗っていたからだ。 』(…中略…)私はマンディよりもむしろニュートンの意見を聞いてみたいよ。亡くなってから300年もたちましたけど、あなたの意見はまだ古臭くなってませんよねってね」。
Linuxの開発
リーナスは元々自身のシステムとしてMINIX OSを使っており、これを自分で作成したOSと置き換え、この自作OSにLinux(Linus's Minix)という作業用の名前をつけた。しかし、この名前はあまりに自己中心的すぎると感じたため、freeとfreakを混ぜてUnixシステム を示すXの文字を足した「Freax」と名づけようとしていた[ 4] 。友人のアリ・レンクはリーナスにそのOSを簡単にダウンロードできるようにネットワークに置くことを勧め、リーナスに自分のFTP サーバ を提供したが、アリはFreaxという名前が気に入っていなかったため、リーナスに linux というディレクトリ を与えた。
1991年 8月 、リーナスはこの成果物をUsenet ニュースグループ comp.os.minix
で公開した [ ※ 1] 。
現在ではリーナス本人が書いたコードはLinuxカーネルのたった2%程度しかないものの、カーネルに新しいコードを追加する際の最終的な決定者としての役割を担っている。なお、X Window System やgcc やパッケージ管理 といった、オペレーティングシステム全体にかかわる事項については他の者が行っている。また、多くのLinuxディストリビューション はディストリビューションごとに独自のカーネルバージョンを持っている。リーナスはたとえ開発者の間で行われたものであっても、カーネルに関係しない議論からは距離を置くようにしているようである。リーナスが書き主導してきたLinuxカーネルと、他の大勢の開発者によるソフトウェア(特にGNU ソフトウェア)とを一緒にしてLinuxディストリビューションと通称する。さらにこれを単にLinuxと呼ぶものも多い。またGNU/Linuxと呼ぶこともある。リーナス自身およびGNUの創設者リチャード・ストールマン は、GNUベースのディストリビューションは"GNU/Linux"という名称を残すべきだとの姿勢をとっている。
リーナスは「Linux」の商標 を保有しており、世界中のLinuxコミュニティの助けも借りて、その使用(および不正使用)を主に非営利団体 Linux International を通じて監視している。オープンソース本来の原則からリーナスは、Linuxに商標をつけることそのものを嫌っていたが、1995年 に商標を取った。これは赤の他人がLinuxを商標登録したり、脅迫されたりする事態を避けるためである。
社会的な認知
Linuxファンの中にはリーナスを神のごとく崇め奉っているものも多いが、彼自身は自著"Just For Fun"(邦題『それがぼくには楽しかったから 』)の中でそういう対応に困惑しており迷惑だと感じていると述べている。
注釈
出典
参考文献
関連項目
Git - Linuxカーネル管理のために開発したバージョン管理システム
外部リンク