レフチェンコ事件レフチェンコ事件(レフチェンコじけん)は、ソ連国家保安委員会(KGB)の少佐、スタニスラフ・レフチェンコが日本国内での諜報活動・間接侵略(シャープパワー)を暴露した事件。レフチェンコは1982年7月14日に米下院情報特別委員会の秘密聴聞会で工作活動を暴露した[1][2][3]。国内外に大きな衝撃を与えた。 経緯亡命→詳細は「スタニスラフ・レフチェンコ」を参照
レフチェンコはモスクワ大学東洋学研究所卒業後、漁業研究所を経てKGB入り[4][5]。日本語課程などを経て1975年2月にKGB東京代表部に赴任[6]。表向きの役職はソ連の国際問題週刊誌ノーボエ・ブレーミャの東京特派員であった[7][6]。KGB東京代表部ではPR班員として積極工作(アクティブメジャーズ)に従事した[8][9][10]。 1979年10月24日にアメリカに政治亡命した[11][12][2][13]。夫人を東京に、子供一人をソ連に残したままだった[14][15]。 暴露1982年7月14日に米下院情報特別委員会(エドワード・ボーランド委員長)の秘密聴聞会で対日積極工作を暴露した[1][2][3]。その証言内容は同年12月2日に日本国内に伝えられ、同月9日に情報特別委の報告書「ソ連の積極工作」として関係資料と共に公表された。また、同年12月10日にはレフチェンコ自身がワシントンで記者会見をしたほか[16]、アメリカのKGB研究家でリーダーズ・ダイジェスト編集委員ジョン・バロン記者により、同証言をもとに「今日のKGB―隠された魔手」が1983年5月に出版された。 レフチェンコは1981年8月に行われたソ連軍事裁判所での欠席裁判で重反逆罪による死刑を宣告された[17][18]。 証言内容レフチェンコの活動レフチェンコが在日中に担当したのは積極工作部門。政界や財界、マスコミ関係者と接触し、北方領土問題を抱え米国と同盟関係にある日本の世論や政策が親ソ的なものとなるように仕向け[19][20][21][22][23]、最終的には日米関係を損なわせること(離間工作)などを目的に、懐柔した日本人協力者を利用して様々な謀略活動を行っていた[16][24]。 エージェントの分類KGB内部では積極工作の協力者のことを「エージェント」と呼び、以下4つの分類があった。レフチェンコの東京駐在時代には少なくとも200人の日本人がKGBエージェントとされていた[1][25][26][27][28]。
レフチェンコのエージェントレフチェンコは10人前後の日本人をエージェントとして直接操り、代価も支払っていた[25][31][32]。 レフチェンコは、1983年のリーダーダイジェストのインタビューで、8名のエージェントの実名を明らかにした[25]。 実名を挙げてエージェントとされたのは、「フーバー」こと石田博英(元労働大臣)、「ギャバー」こと勝間田清一(元日本社会党委員長)、「グレース」こと伊藤茂と「ウラノフ」こと上田卓三の両社会党代議士、「カント」こと山根卓二(サンケイ新聞編集局次長)、「ムーヒン」こと三浦甲子二(朝日新聞)など(肩書きはいずれも1979年当時)[25]。 →「ミトロヒン文書 § 日本に対する諜報活動」も参照
KGBエージェントとされた日本人はいずれも「事実無根」「身に覚えがない」などと疑惑を否定した[33][34]。 渡辺恒雄読売新聞論説委員長は、レフチェンコ事件の協力者リストに読売新聞記者の名が挙げられた折、本人を呼んで尋問したが、「スパイ協力行為はやっていない」と本人は証言した。それからしばらくしたある日、渡辺が首相官邸に赴いた際、当時の後藤田正晴官房長官が「きみの社のあの記者は、ソ連のスパイ協力者だから解雇しろ」と詰め寄った。渡辺は後藤田のその物言いにカッとなり、「政府の人間が我が社の社員を解雇しろなんて、命令するのは無礼じゃないか」と言い放つと、後藤田はレフチェンコの自白を基にCIAや日本の公安当局がまとめた、コードネームは記載されているものの実名は出ていない一覧表を渡辺に示し、「おまえのとこの記者はこれに該当するんだ」と怒鳴った[35]。それを受け、渡辺が「内政干渉だ」と言うと、後藤田は今度「お前は政府に喧嘩を売る気か」と罵った。 渡辺は憤慨して首相執務室に飛び込み、たまたま一人でいた中曽根康弘首相に後藤田とやり合ってきたこと話すと、中曽根は、執務室の机の引き出しの中から書類を持ってきて渡辺に、「これは、私と官房長官しか持っていないものです。どうぞご覧ください」とだけ告げた。それを見ると、コードネームに全部実名がついており、国会議員を含め新聞社もほとんど各社の人間が絡んでいるのが分かった。渡辺はすべてを悟ると「わかりました。僕の負けです」とだけ言ってその場から離れた[35]。 リストに挙げられたこの記者について、渡辺は特定秘密保護法に関する有識者会議の座長を務めた際、「政府の言うとおり処分したと思われないよう、時期をおいてから異動させた」と発言している[36]。 →「スパイ § ソ連・ロシア」も参照
一方で、日本人協力者は積極的にソ連の指示に従って対日工作に協力していた者だけではなく、ソ連の術中に嵌って無自覚に謀略に協力していた者も含まれる[16]。 スパイの暗号名
積極工作の具体例レフチェンコは具体的な積極工作の例をいくつか挙げた。
日本の防諜体制の弱さに対する指摘レフチェンコは証言の中で、「日本人の大半がソ連の対日諜報謀略工作の実態や目的について驚くほど無頓着であると述べている[25]。日本には防諜法も国家機密保護法もないため、政府が外国諜報機関の活動に効果的に対処できず、日本人協力者に対して打つ手も限られている」と日本の防諜体制の弱さを指摘した[55][25]。 日本側の対応→「公安警察」および「外務省 § 関連紛争や諸問題」も参照
レフチェンコ証言について、産経新聞社は1983年5月24日付朝刊で「レフチェンコ証言は全体として信憑性が高い」と報じた。また、同年5月25日の衆議院法務委員会で当時警察庁警備局長の山田英雄が玉澤徳一郎の質問に下記答弁した[56]。
だが、『文藝春秋』6月号におけるレフチェンコのインタビュー中で、産経新聞にも工作を行い、当時の編集局長を取り込むことに成功したとの発言が掲載された。産経はこのレフチェンコ発言に対する反論を1993年5月12日の朝刊に当時の局次長・住田良能の名で掲載し、「彼の発言を多少なりとも信じては気の毒なことになる」と書いて、その証言を全否定した。以後、レフチェンコ証言に基づく記事は掲載されず報道は終了した。 ソ連の対応ソ連の法廷は1981年にレフチェンコを「売国者、嘘つき」と徹底的に非難した他、ソ連共産党国際部日本課長のイワン・コワレンコはその著書内でレフチェンコを「精神的に問題がある嘘つき」と非難した。 さらにKGBエージェントのスヴェトラーナ(Svetlana Ogorodnikov)とニコライ(Nikolai Ogorodnikov)はアメリカでレフチェンコを探し出そうとしたが、これらの試みは「リチャード・ミラー・スパイ事件(Richard Miller spy case)」で露見することとなった。 脚注出典
参考文献
関連文献
関連項目
外部リンク
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