三重区
三重区(サンチョン/さんちょう/さんじゅう-く)は、台湾新北市中西部に位置する市轄区。台北市の衛星都市として開発が進み、台湾中南部からの移住者が多い。 地理三重区は淡水河西岸に広がり、清代以来、台湾の中心地であった艋舺(現台北市万華)や大稲埕(現大同区)の対岸に位置し、士林区からも近い。西北は新北市の蘆洲区、五股区と、西は新荘区と、南は板橋区と大漢渓をはさんで隣接している。 歴史三重が史書に初めて出現するのは、鄭成功時代の1661年である。当初は新荘の頭重埔(埔は広い平地を意味する語)を皮切りに、中国福建南部、広東東部からの移住者によって開発が進められ、その後二重埔(現在の頂崁一帯)、最後に三重埔が開発された。 1889年、劉銘伝が台湾巡撫の時代、鉄道建設のために三重と大稲埕の間に淡水木橋(現在の台北大橋)を架橋し、三重の農産物の物流発展に大きく寄与した。しかし、この橋は木橋であったため、大雨などの災害でたびたび被害を受けた。日本統治時代の1889年に鉄道路線変更が実施され、これにより三重から鉄道が姿を消した。 日本統治時代の三重は、台北地区のジャスミンや柑橘類の集散地であった。当時対岸の大稲でも茶栽培が盛んであったことから、その加工に必要なジャスミンの栽培が盛んであった。しかし、その後食糧増産政策が推進されると、ジャスミン栽培は不要不急の扱いを受け減産し、現在では消滅した。 1920年に台北州新荘郡鷺洲庄に属し、1947年4月1日に鷺洲から独立し、三重鎮が設けられ、1962年に県轄市に昇格して三重市となり、初めて鎮から県轄市に昇格した都市の一つであった。2010年12月25日、台北県が直轄市の新北市に昇格したのに伴い、三重区となった。 経済三重区は高速道路の起点となっており、南北交通の便に恵まれ、台北市という市場に隣接するという有利な地理的条件から、外部からの流入人口が多い都市と言える。1960年代には台北橋の下に日雇い労働者が集まるようになり。多い日には1万を超す労働者が淡水河を越えて台北市内で建築業に携わっていた。 1970年代から1980年代にかけて台湾が高度経済成長を迎えると、当時の台湾省主席であった謝東閔の工業振興政策の下、三重の多くの町工場が成立し、台湾の工業製品部品の多くを生産する拠点となった。現在でも光復路を中心にさまざまな工場が立ち並ぶ工業市として発展している。 行政区
教育高級中学高級職専学校国民中学国民小学交通
観光ギャラリー |