上村愛子
上村 愛子(うえむら あいこ、1979年12月9日 - )は、日本の女子フリースタイルスキー・モーグル元選手。兵庫県伊丹市出身、長野県北安曇郡白馬村育ち。血液型AB型。2008年度紫綬褒章受章者[1]。JOCスポーツ賞特別貢献賞受賞者[2]。 冬季オリンピックでは、5大会連続(1998年長野・2002年ソルトレークシティ・2006年トリノ・2010年バンクーバー・2014年ソチ)で女子モーグル日本代表として出場し、いずれも4~7位の入賞を達成する。さらに日本人では史上初めての、ワールドカップ年間総合優勝も成し遂げた。 来歴幼少時代1979年12月9日、兵庫県伊丹市鴻池にて誕生。生後間もなく、先天性心室中隔欠損症であることが判明する。1981年、2歳のとき、両親のペンション経営開業にともない、長野県小県郡長和町エコーバレースキー場付近に転居し、同地で1982年、3歳からスキーを始める。1986年、両親が別物件のペンション経営を行うため、長野県北安曇郡白馬村に転居し、白馬村立白馬北小学校に進学、同地でアルペンスキーを始める。1992年、白馬村立白馬中学校に進学し、スキー部に所属するも、入部早々にいじめを受け退部。個人的なアルペンスキーの練習を行うに留まる。 モーグル転向1994年、白馬中学校2年生時にカナダのウィスラーへ旅行した際、モーグルスキーブラッコム大会を観戦してロシアのセルゲイ・シュプレツォフの滑走に感銘を受ける。また、同大会で、頭角を顕しつつあった「テディベア」の愛称を持つ里谷多英の滑走を観戦する。 また、お気に入りのスキー板が盗まれ、代わりの板にと上村の実家のペンションで働いていたことがあった写真家の千安英彦にモーグル用の板を勧められたこともあって[5]、この経験で帰国後はアルペンスキーの種目からモーグルへ転向する。1998年長野オリンピックに向けての強化プロジェクトに係わっていた千安は、フリースタイルスキー・モーグルの女子選手を探しており、スカウトされるような形にもなった[5]。 1995年、長野県白馬高等学校に進学、スキー部に所属。自身2度目となる全日本選手権に参戦し3位入賞、全日本スキー連盟(SAJ)ナショナルチームメンバーに選抜される。 世界を転戦1996年、ワールドカップ最終戦マイリンゲン大会に初出場、高校1年生で3位入賞という快挙を達成。同大会の男子優勝者は同じ日本代表の坂本豪大であり、モーグル競技における初の日本選手W杯優勝であると同時に、初の日本選手男女アベック表彰台となった。 長野五輪7位入賞1998年、弱冠18歳にして上村自身初めての冬季オリンピック・女子モーグル日本代表出場となった、1998年長野オリンピックでは、2月8日の予選を13位(21.82点)で通過[6]。3日後・2月11日の決勝本番でも大きなミスなくまとめて、いきなり7位入賞(23.79点)の好成績を残した[7]。 なお、同女子モーグル日本代表の里谷多英が、日本女子史上初の冬季五輪金メダルを獲得する快挙を達成。その直後に上村は嬉し泣きしながら、里谷と抱擁しつつ祝福するシーンが映し出された。 同年3月、白馬高校を卒業し北野建設に入社。社会人としての競技生活を開始する。18歳での五輪出場や整ったルックスなどの話題性もありメディアに多く取り上げられ、里谷多英らと共に日本女子の代表的な冬季スポーツ選手の1人となった[8]。 ソルトレイクシティ五輪6位入賞22歳の2002年、自身2度目の冬季五輪出場となるソルトレークシティオリンピックに出場。 2月10日、予選では日本女子トップの4位(23.82点)で通過。決勝ではメダル獲得が期待されたが、わずかにエアの着地が乱れ、滑走のスピードも伸びずに6位入賞(24.66点)に留まった(里谷は冬季五輪2大会連続メダルとなる銅メダル獲得)[9]。 2002年-2003年シーズンのレークプラシッド大会において、FISワールドカップ初優勝。2004年-2005年シーズンのヴォス大会において、ワールドカップ2勝目を挙げる。 トリノ五輪5位入賞26歳の2006年、トリノオリンピックへ自身冬季五輪3度目の出場となる。試合前から膝を負傷するハンデを背負いながらも、2月11日の予選では日本女子首位の5位(24.20点)で通過。同日の決勝では、世界女子選手でも稀な大技エア「コークスクリュー(空中で縦方向と横方向の両方に身体を回転させる、3Dエア)」を成功させるも、得点は伸びずに5位入賞(24.01点)に終わった[10]。 3大会連続して入賞は果たすも、五輪メダルを再び獲得できなかった同大会終了後のインタビューにおいて、上村は薄っすらと悔し涙を浮かべながら、「一体どうすればオリンピックの表彰台に乗れるのかが…ナゾです…」とコメントした。 ヤンネ・ラハテラへ師事2005年-2006年シーズンが明け、2006年からはヤンネ・ラハテラに師事。ラハテラは、採点配分の低いエアー技にこだわる上村を説き伏せ、ターン技術とスピードアップを求め、怪我に苦しんだ上村を励まして徹底した走法改善を施した。これにより、従来苦手としていた上村のターン技術が飛躍的に向上した。 2007年-2008年シーズン、リステルスキーファンタジア(猪苗代大会)におけるシングルモーグル競技にてFISワールドカップ通算3勝目を挙げ、続くマリアーンスケー・ラーズニェ大会に於いてもデュアルモーグル決勝で連勝して通算4勝目を挙げ、自身初のイエロービブ(種目別年間暫定総合1位の選手にのみ着用を許される黄色いゼッケンビブ)を与えられた。そして迎えたオーレ大会ではシングル、デュアルの2連戦を連続制覇し、FISワールドカップ通算勝利数を6勝とすると同時に、最終戦を待たず日本人モーグル選手として初めてのFISワールドカップ年間総合女王の座を掴んだ。総合優勝を決めた後の最終戦のバルマレンコ大会のシングルモーグルでも優勝し、終盤だけで5連勝という快進撃でシーズンを締め括った。 2008年 - 2009年シーズンは、ワールドカップ総合優勝こそ成らなかったが、2009年フリースタイルスキー世界選手権(リステルスキーファンタジア 猪苗代町/ 日本)ではシングルモーグル並びにデュアルモーグルで優勝し、日本人選手初となる2冠王に輝いた。この活躍が認められ、バンクーバーオリンピックの代表選手に内定した。 結婚2009年6月11日、アルペンスキー選手の皆川賢太郎と結婚。結婚後も、競技試合登録上は従来どおり「上村」姓を名乗って出場することを公式に表明した。 バンクーバーオリンピック4位入賞2009 - 2010シーズンは、ワールドカップ初戦で2位と好スタートを切ったが、その後に好不調の波が押し寄せ、ワールドカップ前半戦未勝利のまま、30歳となる4度目の冬季五輪出場となるバンクーバーオリンピックに臨んだ。 2010年2月13日、女子モーグル競技に出場。予選では日本女子トップの5位で通過(24.31点)し、期待された決勝では自身冬季五輪最高順位となる4位入賞を果たす(24.68点)。自身冬季五輪では4大会連続入賞を達成するも、又しても五輪メダル獲得はならなかった[11]。 競技終了後のインタビューにおいて上村は、全力を出し切ったことに対する満足感を述べつつも、メダル及び表彰台を逃した事については「何で、こんなに一段一段(7→6→5→4位)なんだろう、と思いましたけど……」と思わず泣きながら、無念な心情を口していた[12][13][14]。 ワールドカップ種目別年間優勝を果たして「金メダルを獲得して引退する!」と、どの五輪よりも強い気持ちを持って挑んだバンクーバー五輪が4位に終わってしまった時、プツンと糸が切れたかのように、競技から離れてしまうことになる[15][16]。 ソチオリンピック4位・冬季五輪5大会連続入賞長期休養を経て2013年、ルカでのワールドカップ開幕戦で3位となり、世界選手権でも5位の好結果を残す。上村自身34歳となった5度目の冬季五輪日本代表に選出され、ソチオリンピック本番に出場する。 2014年2月6日の予選では21.01点で7位となり、日本女子では唯一予選1回のみで通過を果たし、2日後の決勝に進出した[17][18][19]。 その2月8日に行われた女子モーグル決勝(12名勝ち抜け)の1回目では、20.43点を出して9位で再び通過。決勝2回目(6名勝ち抜け)は21.15点で6位となり、際どく決勝3回目に進んだ。そして最後は6人によるメダルを賭けての決勝3回目では、1番スタートで20.66点を出して残り3人までトップをキープしたが、最後の3人に抜かれて前回バンクーバー五輪と全く同じ4位入賞となる[20]。冬季五輪では5大会連続入賞という快挙を成し遂げたものの、自身の悲願だった五輪メダル獲得には惜しくも届かなかった[21]。 それでも、競技終了後のインタビューで上村は「こんなに何本も滑るオリンピックは初めてで、決勝ではメダルが獲れなかったけど、とても清々しい気分です。3本共に全力で滑れたことで、点数も見ずに泣いてました」「ソチを目指そうとした時、又(メダルが)取れないとか取れるとか、そういう場所に戻る自信は持てなかった。最高の滑りをしたら獲れるかもという所まで来れたのが、凄く嬉しい」と、目を潤ませながらも笑顔を浮かべた[22][23]。また、自身の五輪出場はこれが最後と示唆しつつ「今回の五輪は良い想い出で終われるんじゃないかと。メダルは無いんですけどね(苦笑)。そこは申し訳ないとしか言いようがないんですけど、頑張ってよかったなぁと思っています」と、悔い無く完全燃焼出来た事を強調していた[24][25]。 現役引退ソチ五輪後の2014年4月1日、上村は女子モーグル選手からの現役引退を表明する[3]。同年7月15日には、所属先の北野建設を退社した[26]。 引退後2014年10月に生徒減少の影響で存続が危機になっている母校・長野県白馬高等学校のスーパーバイザーとして就任(任期は2年)[27]。 2015年2月4日に秋田県庁で「2015FISフリースタイルワールドカップ秋田たざわ湖大会」をPRする大会のスーパーバイザーとなる[28]。 2015年10月から2017年3月までJFN系ラジオ「上村愛子の一段一段いってみよう!」のパーソナリティーとして担当していた。 2018年2月、NHKピョンチャンオリンピックの放送ナビゲーターを務めた[29]。 2021年4月1日、2020年東京オリンピックの聖火リレー(長野県)のランナーを、五輪期間中はNHKでコメンテーターを務めた。 2023年10月23日、ベストへア2023 40代の部を受賞した[30]。 2024年10月2日、前年2023年12月9日に皆川賢太郎と離婚したことをInstagramで公表した[4][31]。 環境問題への貢献2005年 - 2006年ごろから、地球温暖化による降雪不足を心配し始め、「上村愛子オフィシャルブログ」や「CO2減らそうリレーブログ」においても述べている通り、2007年3月、後に夫となる皆川賢太郎、スキー界の先輩で参議院議員の荻原健司と共に当時の若林正俊環境相を表敬訪問するなど、環境問題改善を目する社会活動を行っている。メディアでも取り上げられ、「スポーツビズ」、「全日本スキー連盟」のホームページにおいて紹介されている。 マテリアル2008 - 09年使用。
主な成績オリンピック
世界選手権・ワールドカップ1996年 - 1997年シーズン 総合19位・デュアル28位
1997年 - 1998年シーズン 総合28位・デュアル29位
1998年 - 1999年シーズン 総合6位・デュアル22位
主なエア
テレビ番組
ナレーション
CM出演
書籍著書
関連書籍
VHS
DVD
脚註
外部リンク
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