世紀末芸術 (せいきまつげいじゅつ)は、1890年代 から20世紀 初頭にかけて、おもにヨーロッパ の都市を中心に流行した諸芸術のなかで一定の傾向を示す一群のことを指す。一般に、幻想 的・神秘 的・退廃 的な性格を有するとされる。ただし、一定の流派を指す用語ではない。
概観
スイスのベックリン の代表作『死の島 』1880年
イタリアのセガンティーニ は「アルプスの画家」と呼ばれた。『嬰児殺し』1894年
クノップフ 『芸術(愛撫もしくはスフィンクス)』1896年
クレイン 『海神ネプトゥヌスの馬』1892年
ロンドン では「鬼才」「世紀末 の異端児」と呼ばれたオーブリー・ビアズリー の黒白の鋭いペン画 が話題をさらい、多くの人々がエドワード・バーン=ジョーンズ の描く美しい世界にため息をもらした。オスカー・ワイルド がファム・ファタール (運命の女)を描いたグロテスクで官能的な戯曲 『サロメ 』が大成功を収め、その英語版にはビアズリーの挿絵が添えられた。
パリ では、のちに「小さき男、偉大なる芸術家」と賞されたトゥールーズ=ロートレック のポスターや、モラヴィア 出身でグラフィックデザイナー として活躍したアルフォンス・ミュシャ の版画・ポスター・挿絵などが芸術分野に新機軸を開き、エミール・ガレ やドーム兄弟 などのガラス工芸 がもてはやされた。絵画ではオディロン・ルドン が華麗で幻想的な作品を発表して話題となり、聖書や神話の一節を好んでテーマとしたギュスターヴ・モロー もその精緻な作風が人気を集めた。
ウィーン では、グスタフ・クリムト の描く官能的で退廃的な絵画が話題をさらい、オットー・ワーグナー の建築はその機能美が注目を浴びた。ボヘミア 生まれのグスタフ・マーラー はウィーン宮廷歌劇場 の音楽監督とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 の指揮者 を務めてウィーンの空気と人々の心を震わせ、文芸の世界では16歳にして詩集が認められた早熟な天才フーゴ・フォン・ホーフマンスタール が現れた。
スペイン のカタルーニャ でも、のちに巨匠と呼ばれるアントニ・ガウディ が有機的な曲線を多用した独創的な表現で建築に新地平をひらいた。スイス のアルノルト・ベックリン の『死の島 』、イタリア のジョヴァンニ・セガンティーニ の『嬰児殺し』はともに死を題材にした絵画であるが、島、髪、樹木などにみられる象徴主義 的な表現は、他の作品や芸術分野でも顕著にみられる世紀末芸術の特徴ともいえる。
ベルギー のジェームズ・アンソール やフェルナン・クノップフ 、ノルウェー のエドヴァルド・ムンク など、いずれも象徴性の高い絵を描いたこの時期の画家たちは、そろってサロメ やオルフェウス を描いた。そしてまたニンフ やメデューサ 、スフィンクス 、牧神 など、エキゾティックな題材を好んで取り上げる傾向が著しかった。
「世紀末」芸術
「世紀末」の意味するもの
『サロメ』
ビアズリー が
オスカー・ワイルド の戯曲のために描いた挿絵。1892年
エドワード・バーン=ジョーンズ 『アーサー王最後の眠り』1898年
ロートレック 『ムーラン・ルージュ』1889-90年
ロートレック『写真家セスコー』1894年
フランス
象徴派 の詩人たちと交流をもったルドンの『キュクロプス』1898-1900年頃
クリムト『死と生』1907-1911年
モロー 『オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘』1866年
モロー『ユピテルとセメレー』1894-95年
ミュシャ 『プラハ聖ヴィート大聖堂のステンドグラス』
レヒネル・エデン 『ブダペスト工芸美術館』1896年
アドルフ・ロース 『ミヒャエーラープラッツのロースハウス』1911年
世紀末 ということばは、語彙としては古くより存在したものであるが、1886年 にパリで上演された風俗喜劇『ファン・ド・シエクル(fin de siècle , 世紀の終わり)』が大当たりして以来、広く知られるようになったと云われている。それ以来、19世紀末のヨーロッパの時代思潮にみられる諸特徴を称して呼ばれるようになった。一般には、このことばは、ひとつの時代の転換期に特有な文化的な現象や諸形態、とりわけ終末観 あるいは終末の予兆を指しているといわれており、デカダンス (退廃)やスノビズム、懐疑主義 などとほぼ同義で用いられることが多い。ただし、用法および概念においてそれぞれが必ずしも一致するわけではなく、また、その特徴とされるものの多くは、いずれも世紀の終わりに至って急に現れ出たものというよりは、19世紀を通じてその底部に流れていた潮流や気分といったものが一気に顕在化したものと捉えることができる。
つまりは、19世紀初頭にはじまったバイロン やハイネ 、レオパルディ 、ミュッセ などのロマン主義 に内包されていた「世界苦」の思想や厭世的傾向 が、人間のもつ獣性や醜悪な部分にも目を向けたギュスターヴ・フローベール らの写実主義 あるいはエミール・ゾラ 、ギ・ド・モーパッサン らの自然主義 によってあらためて注視され、またエドガー・アラン・ポー らが提示した空想的芸術、さらには、現実から離れ、それ自体独自な人間精神の世界へ目を向けた高踏派などを経て表出したものとみなすことができる。「世紀末」といったときに、上に掲げたデカダンス以下の諸傾向とともにペシミズム や刹那的享楽主義、「美のための美」を追求する芸術至上主義 や耽美主義 、あるいは逆に唯物主義 を含意することが多いのも、19世紀の思潮全体の推移を俯瞰してこそ理解が可能となる。「世紀末」とはこのとき、様々な思潮が現れては交錯し、対立する場でもあったのである。
言い換えるなら、19世紀前期のロマン主義や、中葉の写実主義、自然主義というふうに、一つの大きな流れにまとめられないところに、「世紀末」の芸術ないしは文学運動の特色があったともいえる。
「世紀末」の舞台
1880年代 のヨーロッパは、ヴィクトリア女王 治下の大英帝国 、植民地拡大政策をとって一定の成果を収めたフランス、鉄血宰相ビスマルク の指導下で一大勢力となったドイツ帝国 、リソルジメント 成ったイタリア王国 など、対外的にみればいずれも国力の頂点に達していた。
ドイツとイタリア統一のあおりをくらって両国との戦争に敗北、永年の盟友だった帝政ロシア とも東方問題 で対立し、さらに諸民族の自立要求と抵抗にも悩まされていたオーストリア=ハンガリー二重帝国 にしても、1880年代は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 と、ハンガリー の文化と風土をこよなく愛したエリーザベト 皇后のもとで小康状態を保っていた。
こうしたなか、欧米では第二次産業革命 とよばれる動きがイギリスのみならず各地で展開していた。物理学 ・化学 ・生物学 ・医学 などの自然科学 分野で現代につながる重要な発見が続き、汽車 や汽船 、自動車 の改良や動力飛行機 の登場、電信 ・電話 の実用化、ディーゼル機関 の登場、写真 や電球 ・蓄音機 の発明、印刷 技術の発達など、おびただしい発明や発見があいついだ。1859年 に機械掘りによる原油掘削が成功したのちは「黒いゴールドラッシュ 」の時代を迎え、「石油 と電力 」を基軸とする技術革新 は、鉄鋼 ・電気 ・化学工業 のめざましい発展をもたらした。こうして飛躍的な成長を遂げた技術力と産業力にささえられて、各国が大胆な首都 改造に乗り出すとともに、都市は急速に膨張し、社会はめざましい変化にさらされていた。
人々が語らう場も、かつては上流階級に限定されていたサロン があったが、新興のブルジョワ 階級は政治談義の場所などとしてカフェ を好み、19世紀中ごろにはサロンに入れない芸術家たちの集まる場所という性格が強くなって、新しい芸術家たちの誕生を促した。さらに、ルノワール が1876年のモンマルトル の踊り場を描いた『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 』では、正式な舞踏会に行くことのできない庶民が広場で気軽に踊りを楽しんだ様子が描かれている。そしてまた、こうした大衆 の政治や文化への参加は、上記の技術革新と相俟ってマスメディア の発達を促したのであった。
このような情況のなかで、一方では依然として人間と社会の進歩・発展を信じる楽天主義 や進歩主義 も広く、そして根強く存在したが、その一方では、滅びの予感と人間文明に対するペシミスティックな懐疑、科学万能主義 に対する反感、通俗的なブルジョワ的生活への嫌悪、官能的陶酔への傾きなどの心性も現れていたのである。その典型として、ジョリス=カルル・ユイスマンス の小説『さかしま』 に登場する主人公のような人間像が掲げられる。
この時期はまた、デイヴィッド・リヴィングストン やヘンリー・モートン・スタンリー のアフリカ探検、スヴェン・ヘディン の中央アジア・チベット旅行、さらには同時期の極地探検などにみられるように未知の世界への冒険が始まった時代でもあった。これは、帝国主義 と相補的な動きととらえることができるが、芸術についていえば、ヨーロッパの人々に対し、野生の世界や東洋世界への絶え間ない好奇と関心をもたらすできごとでもあった。
これら19世紀後半の一連の動向は、90年代の新しい芸術の創造を試みる諸活動を産む契機ともなっていった。
新しき美の追求
ヨーロッパの世紀末芸術は、フランス では「アール・ヌーヴォー 」(新しい芸術)、イギリス では「モダン・スタイル 」(近代様式)、ドイツ では「ユーゲント・シュティール 」(青春様式)とよばれ、いずれも、新たなる美の創生をあらわす多彩な動きとして世人の大いなる関心と期待が寄せられた。この芸術工芸運動は、国により、また地域によって異なった名称を有してはいたが、造形美術だけではなく、建築、工芸デザイン、ポスター、挿絵などあらゆる分野にわたる双方向的な交流・影響関係がみられた点と、華麗な曲線模様を主体とした新しい美学を追求したという点で、互いに似た要素をもっていた。
ウィリアム・モリス を中心とするイギリスのアーツ・アンド・クラフツ 運動、雑誌『ルブュ・ブランシュ』の周囲に集まったロートレックやナビ派 の若者などフランスの芸術家たち、ベルギーの前衛芸術グループ「自由美学」に集った人々、ドイツの雑誌『ユーゲント』や『パン』を舞台に活躍した芸術家たちが、それぞれにみずからの個性的特色を保ちつつも、この広範な世紀末芸術運動に参加した。ロートレックが油彩を描き続けたまま、果敢にポスターに挑戦したのも、この分野に新しい可能性をみたからであろう。
かれらが新しさを求めたことは、その運動の名称そのものにも表れているが、ミュンヘン 、ウィーン、ベルリン で相次いで結成をみた分離派 もまた、いわば過去からの「分離」を唱えている点で共通の傾向をもっていた。なかでも1897年にクリムトが結成したウィーン分離派 は、一方ではオスカー・ココシュカ やエゴン・シーレ などいっそう表現主義 的な画家を生み出した一方で、のちに「建築は必要にのみ従う」と唱えたオットー・ワーグナー、さらには「装飾は犯罪である」としてシンプルな造形性のみを求めたアドルフ・ロース のような建築家の成立も促した。
文学分野においては象徴主義 (サンボリズム)が起こり、生涯にわたって詩の可能性を求め続けたステファヌ・マラルメ 、その破滅的な人生とともに「秋の日の ヴィオロンの……」などの訳詞で知られるポール・ヴェルレーヌ 、20世紀の詩人にとりわけ大きな影響を与えたアルチュール・ランボー ら真に偉大な詩人たちが続々と現れた。ドイツでも、「神は死んだ」ということばで有名なフリードリヒ・ニーチェ が現れ、『ツァラトゥストラはこう語った 』で永劫回帰 と超人 への意思という独自の哲学を確立した。
「世紀末」の2つの特性
ところで、「世紀末」とは単に年代や時代区分を指すものではない。たとえば19世紀後半の絵画には、一方でリアリズム を標榜する印象派 ・後期印象派 の流れがあり、それとほぼ並行してアンチ・リアリズムの象徴主義絵画があった。同時にアール・ヌーヴォーと呼ばれる新芸術運動もあれば、伝統的なアカデミー派 の絵画も健在だった。しかし、美術や文学の領域では単に19世紀末という限定された時代区分を指すというよりは、その時代に特有のきわだった個性・傾向を指している。クロード・モネ やルノワールが「世紀末」にカテゴライズされることは、まずない。
そうした「世紀末」芸術の特性の1つが様式における象徴主義であり、もう1つが主題における、死 やエロス へのこだわりなどの特殊性であり、また、社会通念から逸脱した「退廃的」な主題やモティーフを好む傾向であった。そして、芸術家たちは、この2つの特性を展開するための素材を神話、伝説 、歴史、聖書、文学、歌劇 等に求めた。しかし、これはアカデミー派の「歴史画」とは一線を画しており、「世紀末」の作家たちは説話自体の意味するものを自己の世界に引きつけ、再解釈をしたうえで象徴的、寓意的に提示したのである。それゆえ、その芸術は説話を物語るのみならず、激しい社会の変化のなかでの自己の内面世界をも物語ることとなった。冒頭に掲げたサロメやスフィンクス、オルフェウスなど「異形」の題材が、ことのほか愛されたのもそのためなのである。
関連人物
この節には独自研究 が含まれているおそれがあります。 問題箇所を検証 し出典を追加 して、記事の改善にご協力ください。議論はノート を参照してください。(2014年4月 )
【造形芸術・建築】
シャヴァンヌ 「希望」1872年
ホドラー 「木を伐る人」1910年
コロマン・モーザー 「洞窟のビーナス」1915年
ランボー 詩『座せる人々』の自筆原稿
ピアノを弾くドビュッシー 1893年
マーラー 1909年
【文芸】
【音楽】
【その他】
参考文献
関連項目