中山 俊之基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
北海道函館市 |
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生年月日 |
(1951-06-25) 1951年6月25日(73歳) |
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身長 体重 |
172 cm 67 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1974年 ドラフト2位 |
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初出場 |
1975年4月5日 |
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最終出場 |
1977年4月23日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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指導者歴 |
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中山 俊之(なかやま としゆき、1951年6月25日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手・アマチュア野球指導者。
来歴・人物
函館大谷高校から北海道産業短期大学へ進学して第2回明治神宮大会でも登板、卒業後に大昭和製紙北海道へ入社。1973年の都市対抗にエースとして出場する。1回戦で住友金属の山中正竹と投げ合い、延長15回両チーム無得点で引き分ける。続く再試合で光内数喜(鐘淵化学から補強)、2回戦では日本楽器の池谷公二郎に投げ勝ち、準々決勝に進出。日本通運に惜敗する[1]が、この年に創設された若獅子賞に輝く。
1973年ドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けるも拒否。1974年の都市対抗でチームは優勝する[1]が、柳俊之(電電北海道から補強)、千藤和久(北海道拓殖銀行から補強)両投手の陰に隠れ、活躍の場はなかった。しかし同年の第1回日本選手権では復活、2勝をあげ準々決勝まで進む。同年の社会人野球選抜キューバ遠征にも参加。大昭和製紙北海道のチームメートに加藤英美、我喜屋優らがいた。
1974年ドラフト会議で志望球団の読売ジャイアンツから2位指名を受け入団。1年目の1975年から一軍に上がり初勝利、翌1976年にも中継ぎとして11試合に登板するが、その後は活躍の機会に恵まれず1978年限りで引退。現役時代は、ストレートの速さではなくキレで勝負するタイプ。右のオーバースローから大小2種類のカーブ、シュート、スライダーを武器とした。
2006年より函館大学硬式野球部のコーチを経て、助監督を務めた[2]。
詳細情報
年度別投手成績
記録
- 初登板:1975年4月5日、対大洋ホエールズ1回戦(後楽園球場)、6回表から4番手で救援登板、2回無失点
- 初勝利:1975年4月26日、対ヤクルトスワローズ1回戦(後楽園球場)、2回表無死から2番手で救援登板、5回1失点
背番号
- 26(1975年 - 1976年)
- 13(1977年 - 1978年)
脚注
関連項目
外部リンク