中島弘二
中島 弘二(なかじま こうじ、1945年8月26日 - )は、茨城県出身のプロゴルファー。 来歴1978年の阿蘇ナショナルパークオープンでは西宮辰幸・高井吉春・今井昌雪と並んでの8位タイ[2]、1986年にはNST新潟オープンで金井清一・大町昭義・木村政信と並んでの5位タイ[3]に入り、1992年の大京オープン[4]を最後にレギュラーツアーから引退。 トーナメント出場の傍ら、所属クラブで研修生を指導し、パワーと個性を引きだすレッスンプロとしても評判が高く、小林浩美の育ての親となった[5]。 1995年にはシニア入りし[5]、五島昇メモリアルとうきゅうシニアカップで新井規矩雄・小川清二、ビル・ダンク(オーストラリア)、松本紀彦を抑えて[6]初優勝[1]を果たす。 1996年には第一生命カップシニアで竹安孝博・渡辺修・松井利樹と並んでの9位タイ[7]、TPCスターツシニア7位タイ[8]に入り、日本プロシニアではテリー・ゲール(オーストラリア)、石井裕士・金井・鈴村照男・長谷川勝治・安田春雄・菊地勝司・小林富士夫を抑えて優勝[9]。日本シニアオープンでは青木功、ゲーリー・プレーヤー(南アフリカ)、グラハム・マーシュ(オーストラリア)に次ぐ4位[10]に入った。 1998年にはTPCスターツシニア10位[11]、日本プロシニアでは金井の2位[12]に入った。 2003年のPGAフィランスロピービックライザックシニアには陳志明(中華民国)、中尾豊健、マイク・ファーガソン(オーストラリア)、山本善隆と並んでの7位タイ[13]に入った。 2004年にはキャッスルヒルオープンでは中村彰男・横島由一と並んでの6位タイ[14]に入った。 2016年の日本プロゴールドシニアでは目にも異常が出てきたほか、大会1週間前に転んで痛めた右足に内出血が残る中、初日を1アンダーでまとめる[15]。首位と1打差で最終日をスタートし、2番でイーグル、3番でバーディを奪って一気に先頭に踊り出ると、その後は4ボギーを叩いて貯金を全部吐き出したが、16番をバーディとして1打差で逃げ切る[15]。 2019年の日本プロゴールドシニアでは初日を1バーディ・1ボギーのイーブンパーでまとめ、71のエージシュート達成で単独首位に立った[16]。 2022年に日本プロゴールドシニアに出場した後は体調を崩し、復活までに時間を要したが、2024年には小川に次ぐ2番目の年長者としてティーチングプロゴールド選手権に出場[17]。初日に前半を1バーディ・4ボギーと凌いたが、後半は11番でバーディを獲ると12番、13番では連続ボギーを叩く[17]。14番パー5ではバーディを取り返し、15番ではボギーと出入りの激しいゲームが続いたが、後半1つスコアを落とすにとどまり、全体でみれば3オーバー5位タイで首位と2打差の上位に着け、75でエージシュートも達成[17]。 小林の他には香妻琴乃の師匠としても知られ、現在は工藤遥加を指導[18]するほか、週2、3回のラウンドレッスンを茨城ゴルフ倶楽部で行っている[17]。 主な優勝
著書
脚注
外部リンク |