亘理伊達家
亘理伊達家(わたりだてけ)は、仙台藩主・伊達氏の分家。仙台藩一門第二席。もとは亘理氏であった涌谷伊達家(一門第四席)とは別の家である。 概要伊達宗家第14代当主・伊達稙宗の子・実元を家祖とし、その子の成実が慶長7年12月(1603年2月)に亘理郡亘理城主となったのが始まりで、江戸時代を通じて家中最大の24,385石を領した。 第14代当主・邦成は戊辰戦争の敗北にともない所領をわずか数百分の一まで削減され、数百名の家臣の生活のために自ら家中を率いて北海道に移住し、現在の伊達市を開拓した。明治25年(1892年)にはその功を認められて男爵位を授けられ華族に列した。伊達市と旧領の亘理・山元・新地の三町は、「ふるさと姉妹都市」として提携関係にある。 亘理伊達家の所領太字は全村拝領
歴代当主
系図
逸話1868年の戊辰戦争の際、旧幕府側の仙台藩に新政府軍の軍勢が迫る中、藩主一門の亘理伊達家当主は現在の山元町の農家の若者であった長左エ門と彦左エ門の2人を和平の使者に任命。現在の福島県境に陣を構える新政府軍へ向かわせた。しかし、新政府軍は2人を怪しみ、彦左エ門を人質に取った。新政府軍は長左エ門に「亘理伊達家の重臣を連れて来るよう」命じ、期限までに戻らなければ彦左エ門を斬首すると告げた。長左エ門は「必ず戻ってくるからな。俺を信じてくれ」と、駆け出した。 その頃、藩内では抗戦派と新政府軍に従う恭順派が激しく対立。答えが出ないまま期限は過ぎてしまう。彦左エ門は処刑場に引き出されるが、嘆願の結果、3日の猶予が与えられた。藩の意見は恭順[1]に傾き、長左エ門は重臣らとともに再び新政府軍の陣を訪れた。彦左エ門は解放され、休戦交渉が始まった。 それから152年後の2020年、山元町教育委員会は「人を信じ合う気持ちを学び取ってほしい」と、郷土を戦火から守った2人の若者の友情についての話を副読本に収録した[2][3]。 参考文献
脚注
関連項目
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